2019年12月14日、15日 福島ダイアログ 「9年間の軌跡について語る」
久しぶりの福島市での開催となった今回の福島ダイアログでは、震災と原発事故から8年7ヶ月が経過した現在までの時間の流れを振り返ることをテーマにしました。
2021年3月は、震災から10年目を迎えます。おそらくその前後には、多くの10年間を振り返る企画が催されることとなるだろうと思います。そうした賑やかさが訪れる前の、原発事故からも関心が薄れつつある今だからこそ、静けさのなかで振り返ることができるのではないかという思いから、この時期にこのテーマとすることにしました。
1日目:12月14日(土)
14日午前中は、福島市にある酪農家の「佐々木牧場」へ視察にお伺いしました。ホルスタインを30頭ほど飼っている佐々木牧場が酪農を開始したのは、60年ほど前のことだそうです。牛乳の生産から加工、販売まで自牧場内で完結させる、福島県内では唯一の牧場として、酪農を続けられてきました。販売先は、ほとんどすべて福島市内とのことです。 2011年震災の時は、牛乳は出荷停止措置となり、一ヶ月ほどの間、搾乳をしても廃棄せねばなかなくなったとのことでした。検査の上、一ヶ月後には、出荷停止措置はとかれ、生産・出荷は再開することができました。現在は、敷地内にカフェを作り、そこで生産した牛乳を使ったソフトクリームを販売されています。今年からは、チーズ工房も併設し、チーズの販売も始められたとのことです。生産などについては、原発事故の影響は定期的に放射性物質の検査を行う程度のことしか残っていませんが、福島市内での牛乳の配達販売顧客数は震災前と比べると回復しておらず、新規事業をあわせても震災前の売り上げは回復していないとのことでした。

14日午後は、ふくしまコラッセ3階企画展示室にて参加者からのプレゼンテーションを行いました。以前にもダイアログに参加してくださった方にお声がけをして、当時と現在との状況の変化が感じられる内容でした。 飯舘村のふくしま再生の会の菅野宗夫さんは、2012年にはふくしま再生の会を立ち上げ、そこには県外や東京の研究者を含めた多くの人たちが集い、飯舘村での活動を行っています。避難指示解除前から農作物の生産実証実験等を行い、着実に成果を積み上げてきた再生の会では、避難指示解除後も変わらず人びとが集い、また海外や県外からの視察・研修も訪れているとのことです。ただ、避難指示解除後も75%は村外居住で、住民票登録数も解除時と比べて700人減(2019年9月末現在)しているという現実の語られました。今後とも協働しながら、村の復興へ向けてチャレンジを続けられると力強く語られました。

続いて、伊達市のライフフォーマザーズの新井芳美さんのお話でした。事故直後は、県外に避難をした新井さんが避難先から自宅へ戻った時には、放射線に対する不安や、また行政や専門家に対する不信も大きく、またそうした思いを共有する人も見つけられず孤立した思いを抱えられていたそうです。やがて、「伊達ママクローバーの会」という同じ避難から帰還した母親のサークルを作り、集まりを繰り返す中で悩みや思いを共有することが出来、自分だけじゃないと安心することができたそうです。新井さんのご自宅は伊達市の除染対象外となるCエリアで、請願書を提出しても除染はしてもらえませんでした。そこで仲間に協力してもらい、自分たちで自宅の除染を行ったそうです。その時の気持ちは、なんと晴れ晴れとした気持ちがしたことでしょう、との言葉がありました。やがて、NPOりょうぜん里山学校のスタッフとして「伊達もんもの家」の運営にかかわることになりました。その中で、伊達市の職員、専門家と交流する機会があり、これまで不信感を持っていた行政の人とも率直に話をすることができ、同じ市民だと感じることができるようになったそうです。放射線に対しても測定をし、自分のなかで「マイ・ルール」を決めて、いまでは落ち着いて暮らすことができるようになったとの話されていました。 伊達もんもの家では、避難から戻られたお母さんたちの体験記を冊子としてまとめられています。『それでも福島でこどもを育てていくために』

※安東コメント
こちらの手記のなかに、講師として招いた専門家から、避難したことを「子供を守ろうとした尊い行動」と言われ、苦労を初めて認めてもらえた気がしてみんなで泣いた、そしてその後に納得いくまで聞くことができて不信感が解けたとの記述があります。一方的な説明、結論の押しつけ、理解させるよう説得することが、相互理解のためには逆効果にしかならないことをあらためて感じました。
一般社団法人AFWの吉川彰浩さんのお話です。事故当時、東京電力福島第一原発で働かれていた吉川さんは、事故からしばらく立って思うところがあり、東京電力を退社、その後は、民間の活動を始められました。震災時は浪江町に居住していて、事故が起きた後は、これまでまわりの人たちに「事故は起きない」と嘘をついてきてしまったとの自責の念に襲われたそうです。当初は、福島第一原発への視察案内を行うなどをされたり、様々な立場の人たちの対話の場を設けたりもされてきましたが、今は、対話でもなく「会話」がしたいと思っていると言われました。

リプルンふくしま杉本陽子さんとコミュタン福島の佐藤理彩さんからお話をうかがいました。富岡町にあるリプルンふくしまは2018年8月開設、コミュタン福島は2016年に開設され、来館者へ福島県内の状況を発信すると同時に、放射線について知り、学ぶ場として活用されてきました。学校や団体の見学を迎えるだけでなく、体験学習やイベント等を通じて、教育の場としても使われています。リプルンではいまでは団体来館者は県外からの利用者の割合の方が多く、県外の団体が福島について知るために訪れる場として定着しつつあることが覗えました。今回ご発表くださった杉本さん、佐藤さんともに、震災前は放射線とも原子力とも無縁の生活を送られていたそうです。震災後、放射線について学び、現在ではそれぞれの施設で見学者の方へ説明を行われています。震災からの時間の経過を感じさせるエピソードでした。

JAEA植頭康裕さんと安積高校原尚志さんは、お二人が前々回のダイアログで知り合ったことをきっかけに企画した県内の高校生対象の意見交換会についてご報告いただきました。福島県内高校20名の希望者を対象に廃炉資料館等、浜通りの関連施設を見学したのち、高校生どうしの意見交換が行われました。現在の福島県内の高校では、こうした原発事故に関連して高校生が意見交換を行う機会はほとんどないそうです。知りたい、話したいと思う高校生への場の提供が不十分なのではないかというご指摘がありました。今回の意見交換会では、意見交換を行うことができたことへの満足度は非常に高かったとのことです。将来を見据えて、高校生に対して一方的でない学びの場を用意する必要性が指摘されました。

フランスのIRSNから参加したジャン=フランソワ・ルコントさんからは、ダイアログからなにを学んだかの発表がありました。2011年11月からはじまったダイアログには、最初の1回目を除き、これまですべてに参加してきています。IRSNは従業員1,800人ほどいるフランスの原子力・放射線の安全と防護を研究、実施する専門機関です。業務は多岐にわたり、原子力施設における安全管理から、通常の放射線廃棄物、またラドンのような自然界に存在する放射性物質への研究、対応も含みます。福島ダイアログには、原発事故がフランスで起きた場合に備えるために参加しています。チェルノブイリと同様、福島での人間的側面における影響が大きかったこと、社会的、経済的、倫理的な影響があったことを学ぶことができたとことです。海外の専門家は、船頭のようなもので、国境を越えて過去(チェルノブイリ等)と現在(福島)の経験をつなぐことに寄与できたのではないかと言われました。

この後、ICRPの科学秘書官クリス・クレメントさんから、2020年11月30日から12月4日にかけて、福島市のコラッセふくしまを会場にICRPが主催して行う原子力事故後の回復についての国際会議の予定がアナウンスされました。
2日目:12月15日(日)
福島ダイアログ「9年間の軌跡について語る」は、JAふくしま未来の数又清市さんの原発事故からの福島の農業の発展についてお話いただきました。原発事故によって大きな影響を受けた福島県内の農業ですが。除染などの対応の努力もあり、年々、風評被害からも回復しつつあります。現在の他の生産地との価格差については、生産品目や市場における占有率などによっても違ってくるため、一概に語ることができないようですが、あんぽ柿、桃といった贈答品に用いられる嗜好品目の価格が回復しにくい傾向が見られるとのことです。また、スーパーなどでの福島産品を販売する棚の縮小が大きな影響を与えていると考えられています。あんぽ柿については、JAで大規模な生産工房を作り、生産管理を行うと同時に、安定した品質の商品を作る挑戦もはじまっています。高齢化等によって生産を再開できない、あるいは、基準値を超えてしまう畑については、伐採をし、圃場の整理を完了させることを現在の目標としているとのことでした。

伊達市富成の石川哲也さんからは、ご家族の経験についてお話をうかがいました。一時、県外へ母子避難をされていた石川さんのご家族が伊達市に戻られた後の、2014年8月のダイアログで一度お話をお伺いしています。その後、地域の活動にも参加され、地域の伝統芸能である太鼓やPTA活動などにもご参加されてきました。一方、地域の人口減少と過疎化は進み、地域の富成小学校は今年閉校を迎えることとなりました。戻って1年後には、ご家族の発病とご不幸があり、「原発事故がなければ、母子避難がなければ、状況が変わっていたかもしれない、との思いは消せません」。それでも、「経験や体験を後世に道しるべに残したい」との言葉とともに、夢と希望の大切さを語ってくださいました。

双葉町細谷地区の田中信一さんは、2017年3月のダイアログで、中間貯蔵施設用地となって取り壊されるご予定のご自宅をご案内してくださいました。それから2年半が経ち、自宅は取り壊され更地となりました。今年の11月に訪れたときの写真を紹介しながら、お話をうかがいしました。150年前から細谷に住まわれていた田中さんは農家の5代目でした。原発事故が起き、生まれ育った場所は中間貯蔵施設となり、跡形もなくなることになります。それでも、福島の復興のために誰かが提供しなくてはならないのだろう、とご自身は受け入れるkとを決めました。環境省の予定では2年後には、県内の除染廃棄物はすべて中間貯蔵施設用地に運び込まれ、搬入は完了することになります。その時に、自分のような思いをした地権者が何百、何千人といることを心の片隅において、思い出して欲しい、と最後に仰いました。

フランスで制作された90分ほどのドキュメンタリー『チェルノブイリ・福島 Living With Legacy』を上映しました。この映画は、原発事故後のベラルーシ、ノルウェー、福島の人びとがどのような経験をし、思いをもって生きてきたかに焦点を当てた映像です。いわゆる原発事故の映像に見られる劇的な箇所はほとんどなく、美しい映像と淡々とした語りによって、事故の影響を映像化しています。

午後からのダイアログは、11名の参加によって行われました。これまでの時間を振り返り、この先になにを望んでいくのか、というテーマで2周してお話いただきました。1巡目の話では、それぞれの感じる現状が語られました。司会をしながら感じたのは、日常生活を送るという面では多くの人たちが平穏な暮らしを回復できている一方、どこかもやもやした、ぎくしゃくとしたものが残っていると感じている方が多いのではないかということでした。「境界線」が引かれてしまった、という言葉に象徴されるように、原発事故によって社会のあらゆる部分に亀裂が入り、日常生活へ大きな影響を与えました。その亀裂は、いまもなお目に見えないだけで固定化し、一層強固な形で残ってしまっているのかもしれません。海外のクリス・クレメントからは「人間の復興が大切だ」との意見がでました。2巡目では、この先のことについて次の世代に伝えること、福島の外に伝えること、異なる意見に耳を傾けることなどの意見が出されました。ひとつ示唆的だったのは、被爆地広島へなにを学びにいくのか、という問いに対して、原爆について学ぶのではなく、「平和」を学びに行くというより広い観点からの答えができるけれど、福島ではそれが可能なのか、というご指摘でした。福島に来ると原発事故について学べる、ではなく、人生が豊かになる、そう言えるものを提示したいとのご指摘でした。海外からの参加者も、原発事故後日本での滞在日数は400日を数え、福島はただの訪問地とは思えない、自分にとっても感情的な場所になっている。この先も福島の経験を世界に伝えていく努力を続けたい、と意見がありました。ダイアログのなかで、言葉にならなくても伝える努力をしたいとのコメントもありました。原子力災害、放射能災害は、災害が目に見えないため、他の災害と違ってすぐに一致した対応策を考えることが難しいのだと思います。一度、それぞれの個々の内面を経由してはじめて対応を考えることになります。人間は人それぞれ感覚も考え方も違うので、おのずと出てくる対応策も違ってきてしまうのかもしれません。そこが原子力災害後の生きづらさにつながっている気がします。目に見えないからこそ、見ただけではわからないから、互いに言葉にして伝える必要がある、けれど、すべての考えや感じたことを言葉にできるわけではありませんから、言葉にできることには限界があります。そうした限界のなかでも、言葉にならなくとも互いの言葉に耳を傾け合うこと、これが原子力災害後のこの先も必要とされることであるのかもしれません。

原発事故の後は、大混乱の中で、それぞれがそれぞれの置かれた状況のなかで生活を立て直そうとしてきました。今回、会場から伊達市の職員の方が挙手され、伊達市で原発事故後に設置し、稼働してきた仮設焼却施設がすべて業務を完了したことをご報告いただきました。当時は、行政の担当職の方は、自分も地域住民の一員であるにもかかわらず、批判の矢面にさらされ、大変な思いをされてきたと思います。お疲れさまでしたと申し上げたいと同時に、事故後は、あらゆる立場の人たちがそれぞれに「よかれ」と思って行動したことに対しても、異なる立場の人からしばしば感情的な強い批判にさらされてきたのだとも感じます。少なくない人たちがそれに疲れ、口をつぐむという現象が起きているようにも感じました。復興に水を差すと言われかねないため、放射線に対する危惧を口に出すことそのものが難しくなっている、という意見も会場の参加者からは聞こえてきました。目に見えない社会に入った亀裂は、互いの言葉に耳を傾け合うことでしか修復できないでしょう。そんななか、互いに口を閉ざしてしまうことは、ぎくしゃくしたものをそのまま残すことになるのではないかとも感じました。事故から10年を迎えるまでに、立場や考えは違ったとしても、それぞれが懸命に向き合ってきたことに対して、お互いに「お疲れさまでした」と言える雰囲気になることを願ってやみません。