弊NPO福島ダイアログ理事長・安東量子の朝日新聞上での連載「福島季評」3月6日に、今も避難指示が解除されていない福島県浪江町津島赤宇木地区の住民の皆さんが作成した地域の記録誌『百年後の子孫(こども)たちへ』について触れました。
多くの避難先にいらっしゃる方々にお読みいただきたいと、1ヶ月間期間限定で本サイト上で無償公開することになりました。(4月10日迄) お知り合いの方にお知らせいただけますと幸いです。
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そこは、「まるで天国」だ。アメリカで長く愛されてきたカントリーソング「Take Me Home, Country Roads」がそう歌うのは、東部に位置するウェストバージニア州だ。アパラチア山脈に貫かれ、自然豊かで風光明媚な山岳地帯として知られる。州の南部には19世紀半ばから開発された炭鉱地帯が広がる。一方、景観の美しさは、土地利用の難しさの裏返しでもあり、炭鉱業が栄えた一時期を除き、経済的には恵まれない低所得地帯でもある。
広大なアパラチア炭田の一部となるこの炭鉱地帯の一角、バッファロー・クリークで、アメリカの災害史に残る大洪水―それも人災―が起きたのは、1972年のことだった。山あいの谷を流れる細い川筋に沿って立ち並ぶ集落の上流には、炭鉱の鉱山ゴミで造られた、廃水をためておく巨大な貯水ダムがあった。それが雨で決壊、怒濤の濁流となって谷筋の集落に襲いかかったのだ。荒れ狂う激流に直撃され、125人が亡くなり、谷筋にあった家屋の多くが消失、5,000人の住民のうち4,000人が住居を失ったという。住民の多くは、炭鉱の労働で生活を成り立たせていた人々だった。
災害から1年後に現地に入った社会学者カイ・エリクソンが、「抜け殻」となった住民たちの様子を豊富な証言とともに記録している。この災害が歴史に残るのは、その規模のみならず、エリクソンが記した著書「EVERYTHING IN ITS PATH(邦題:そこにすべてがあった 訳:宮前良平ら)」の影響もある。彼は、この出来事を経済的、人的、物理的な被害、あるいは、企業の過失責任の問題としてだけではなく、そこに暮らしていた人びとにどのような意味があるのかを膨大な資料と証言から描き出した。
内容の大部分は、住民たちの言葉の引用を用いた災害と被災後の経験で構成されるが、アメリカの発展から取り残されてきたアパラチア地方の歴史と地域性の長い解説を前半に置く。開拓時代の雄大とも粗暴とも呼べる始祖たちの暮らし、厳しい環境との闘いと調和、狭いコミュニティーのなかの独特の人間関係、やがて、大地に眠る資源を利益に変えるために入り込んだ資本家による炭鉱開発と、暴力的とも呼べるほどに劇的な生活の変化。ダイナミズムに富む歴史を経て、豊かといえなくとも、安定した生活を営むことができるようになった、そう思っていた時に、災害は襲い、「すべて」を根こそぎ奪っていったのだった。
失ったものをひとつひとつ記載していけば、長大なリストになってしまう。世代をさかのぼって来歴を知る人たちとの家族のような関係、あらゆるところに自分たちで手を入れた住居、どこになにがあるか体の一部のように知っている土地との交流。バッファロー・クリークでは、自分が何者であるかを説明する必要は一切なかった。共に暮らす人たち、土地、気候、流れる時間、すべてが自分の一部としてなじんでいた。それを失った時、人々は、自分が何者であるかを支える基盤もまた同時に失ったのだった。(自分が何者であるかをあらわす「アイデンティティー」概念を提唱した心理学者のエリク・エリクソンは、著者の父親だ。)
バッファロー・クリークの住民たちは、カイ・エリクソンらの協力もあり、炭鉱会社を相手取った訴訟に勝利したものの、多くは地元を離れた。少なからぬ人たちはその後、アイデンティティーをもう一度獲得するための苦闘を、長く続けることになったのではないかと想像される。
昨年、800ページを超える分厚い一冊の書籍が手元に届いた。原発事故からいまだ避難指示が解除されていない福島県浪江町津島にある赤宇木(あこうぎ)の人たちの手による『百年後の子孫(こども)たちへ』と題された記録誌だ。ずっしりと重い本をめくりながら、バッファロー・クリークを思い出していた。この本も、エリクソンの著書と同じように、地域の歴史を描くところから始まる。ついで、地理、産業、習俗、自然、団体組織、文化と続き、居住していた全世帯の紹介ページには、各戸ごと春夏秋冬の写真が付されている。最後には、原発事故から10年間毎月測り続けた、全87戸の放射線量測定報告を収める。時間の経過にともなって低下していく放射線量のグラフが、断ち切られた時間を表しているようだ。人びとの暮らしが主役だった場所を、いまや、無機質な数値が支配する。
表紙を開いたタイトルの下には、短い文章が添えられていた。「私たちは/どこから来て/どこへ行くのだろう」。その文言は、冒頭で紹介した歌のサビにある「Take me home, to the place I belong (連れて行って、ふるさとへ、私のいるべき場所へ)」と重なって響く。確かに、そこに、「すべて」があったのだ、と。
それが天災であれ人災であれ、なじみの生活を突然失う時、私たちは、同時に自分の一部をも失う。そして、失ったものの代わりを探す、終わりのない旅へ投げ出される。自分は何者なのか、との問いを抱きながら、失う前には当たり前に存在した、自分がいるべき場所を見つける、長い、長い道程が始まる。
(2025年3月6日朝日新聞朝刊掲載)