「うつほの襞/漂流の景」によせて——来たるべき未来のために
written by 安東量子 2022/02/01
This article is a commentary on the performance unit Humunus Tour Project @ Tomioka Town, Fukushima Prefecture, 25 December 2021: ” “Utsuho-no-Hida / Drifting Landscape”. Sorry for only in Japanese.
「夜の森(よのもり)」という地名は、昼でも夜のように暗い森、の意であったのだという。
開拓者は「朝日が原」と名付けたが、その名が定着することはなく、開拓地が住宅地として造成され、多くの家が隙間なく建ち並ぶようになってからも、夜のように暗い森、「夜の森」と呼ばれ続けた。
更地が増えた。
「こちら」と「そちら」を区切る境界線のゲートの向こうで、重機のアームとヘルメット姿の作業員が動いているのが見える。かつては建物の一部だったものが、アームの先端の鋼鉄の爪に挟まれて、トラックの荷台へと中空を移動する。そして、その残りは人の手によって、大きなプラスチックバッグにより分けられていく。ゲートのこちらとそちらを行き来する大型トラックが、「廃材」を運び出していく。すべてが運び出された敷地からは、地の底からしみるような静けさが立ちこめる。そこにかつて、なにかがあったことを忘れさせなくてはならないとでもいうように、痕跡を静けさで塗り込めていく。
建築物が取り壊された場所はどこでも、見晴らしがいやにいい。遠かったはずの阿武隈の山並みが、やけに近く見える。東に太平洋、西に阿武隈高地という地形が、東北にしては温暖な冬の気候をこの地にもたらした。連なる山並みの頂きが白く色づき、視界からは見えない高原が一面の銀世界に覆われるときも、ここは穏やかに晴れ渡り、空気は冴え冴えと乾燥している。ときどき舞ってくる山からの「吹っかけ(風花)」だけが、山向こうの天候を知らせていた。
冷え切った空気にも日差しがぬくもりを与えていた昼どきを過ぎ、冷気が鋭さが増しはじめていたその時、彼女はひとりで方形の更地に立った。十五メートル四方程度の人丈よりも高いアルミ製の斜め格子のゲートに囲われた向こう側にひとり佇む。彼女の後ろにそびえる、隣家との境界を示すコンクリートブロックの塀の存在が、かつては、そこが宅地であったことを窺わせる。すすけた塀は、新しく客土されまっさらになった敷地とコントラストをなし、同時期に建てたであろう今はない建物の存在をわずかに感じさせる。
彼女が立っているのは、玄関前だ。
家屋の映像が記憶のなかから立ちあがる。戦後、生活がようやく落ち着きを取りもどしはじめた時期に建てられた文化住宅の雰囲気が残る、トタン葺き屋根の家。玄関を入ってすぐの道路に面した側の壁には採光のための小さな窓がある。窓枠は白い壁とコントラストをなすように茶色く塗られていた。玄関からは板張りの廊下がのび、居間にはテレビと、テーブルに向き合うようにソファと椅子がある。その部屋で、こんな寒い日も暖房をつけて、家族で座って談笑した。その時の匂いも鮮明に「記憶」を掘り起こしたあとに、ふと我に返る。私は、そもそも、その家を見たことがあっただろうか。
初めてこの場所に案内してもらったのは、数ヶ月前だった。その時に家屋は残っていただろうか。いや、すでに更地になっていたはずだ。ということは、私はこの家を見たことがない。それなのに、こんなにも鮮やかに「記憶」が甦ってくるのは、なぜだろう。
そう、あのとき彼女は、用意していた自宅の写真を、この敷地のそばに立って見せてくれた。今はからっぽの敷地に、地方の住宅地ならどこででも見かける、白い吹き付け塗装の壁に、トタンスレート葺きの屋根、人の匂いのする住宅が、写真には映っていた。その写真の映像は、私の「記憶」として固定され、いま、なにもない敷地に立つ彼女の姿を見て、まるで私自身がその家屋を知っているかのように甦った。
背後のポータブル・スピーカーから、彼女の声が流れてきた。とつとつとした語りにあわせ、なにもない敷地を彼女が動く。かつて、そこに建物があり、部屋が存在したときの動線を辿っている。ドアノブを握り、入り口を開ける。ただいま。おかえり。廊下を開けて部屋に入る。座る、テレビを見る、ソファの上に寝転ぶ、ご飯を食べる。階段をのぼる、机の前に座る、眠る、起きる。日々の起き伏しは単調で、特筆するようなことはなにもなく、ただ積み重ねられていく。
日が陰る。風が冷たい。コートの襟を立て、首のマフラーを巻き直す。彼女の立つ敷地とギャラリーを隔てる道路をトラックが走り抜け、走行音が、音質のよくないスピーカーから流れてくる「声」にかぶさる。聞き漏らさないように耳をそばだてる。
これは、ひとつの「演劇」だ。彼女が高校時代に演劇をつくった経験があり、そのことが自分の経験を相対化するのに役立ったと話してくれたことを思い出した。しかし、これはどんな種類の演劇になるのだろう。空白の「ステージ」で、自分自身の過去を再現し、演じる。演劇というにはあまりに現実に近すぎ、虚構と呼ぶには痛切だ。自分が生きてきた場所での暮らしを、空白となったその場所で再現する表現、それをなんと呼べばいいのだろう。
その時、「ゲンシ」という言葉が、スピーカーから流れてきた。幻視、原子、原始、どれもそぐわない。今日の朝、手元に配られていたパンフレットで文字列を確認した。
幻肢、とあった。
その文字列を見て、目の前が晴れるように、今日のツアーの意味が腑に落ちた。
事故などによって、後天的に体の一部を失った人が、しばしば、ないはずの体の一部から痛みなどの感覚を感じる現象がある。それを「幻肢」と呼ぶ。生理現象としては、かつてあった体の一部を脳の神経回路があると誤って認識して発する電気信号が、その原因とされている。いまはなくなってしまった幻の体から伝わってくる痛みは、その体がないから、手当のしようがなく、本人も周囲の人間も途方にくれるのだという。
私たちは、朝から、町のなかを練り歩いてきた。のっぺりと真新しく再開発された駅前から、縄文時代にさかのぼると言われる高台の遺跡を辿り、空き地の空白を埋めるようにふたたび建設された新築の建物群を横目に、道路両脇に立ち並んでいた商店が取り壊され更地ばかりになった商店街跡を抜け、かつての山城あとを眺めた。そこは北と南の権勢の境界だったのだという。
おなじ話を以前ほかでも聞いた。どこに行っても、このあたりは「境界」ばかりだ。波紋状に広がる境界を、一枚一枚薄皮を剥ぐように越えていくけれど、行けども行けども、どこにも中心がない。それが「周縁」ということだ。
政治権力は中心を規定し、周縁を生み、支配と服従を構造化する。中心であるための闘いは、間断なく繰り広げられる。歴史的、地理的に常に周縁であることを位置づけられたこの場所は、敗れた者の流れ着く場所でもあった。
一千年前の補陀落渡海の生き残り、太平洋を流れ着いて浜辺に漂着した一意法師が開山したという宝泉寺を詣でた。本来、法師が行き着くべき場所はここではなく、大海の南方にある「補陀落浄土」であったはずだ。だのに、彼は、その逆、大海の北方にある浜辺に打ち上げられ、漁師に救い出され、居をここに構え、生涯を過ごすことになった。大海原の向こうにあるはずの彼岸に向かった僧侶は、ふたたび陸に戻ってはならなかった。彼が、浜に打ち上げられたのは潮と風の気まぐれであったにちがいないが、往生しそびれて舞い戻ったこの地は、彼にとって此岸ではなく、かといって彼岸でもない、生と死の淡いする境界であったろう。
あるいは、それから900年の後、その身を尽くしたはずの郷土の相馬——この地方の政治的中心地——を追われ、暗い森に開拓の夢を見た半谷清寿という人もまた、ここが周縁であるからこそ、政治的中心地で汚名を負ってもなお夢見ることがゆるされた。
戦後、海の見える崖の上にアトリエを構え、この海を愛でた美術家は、浜辺のテトラポットで足を滑らせ、そのまま冬の海で絶命した。彼は、若かりし頃に首都で政治闘争に参加したという。政治闘争の舞台となる首都の喧噪を逃れた美術家は、ここが「中心」から置いてけぼりにされたがゆえの静けさ——周縁ゆえの静けさに惹かれたのではないだろうか。
私たちは、一日をかけて、かつてあったはずのもの、今はもうないもの、痕跡しか残らないものを辿ってきた。それは、さながら、彼女の幻肢のかたちを一緒に探りながらたどるみち路であった。
原子力災害は、その被害が目に見えない。そのために、なにを失ったのかが自分たち自身でも把握できない「曖昧な喪失」であるとしばしば言われる。確かに自分たちは、「なにか」を失った。けれど、それがなになのかは、自分でもよくわからない。
せめて、目の前に朽ちていく町が、荒廃していく村があれば、それを喪失の依り代とすることができるかもしれない。しかし、いまや、かつてあった町も解体され、見覚えのない真新しい建物か、更地に置き換えられていく。なにを喪ったのか、ますます見えにくくなっていく。同時に、喪ったという感覚だけは、ますます強固になる。それは、幻肢の痛みに似ている。
幻肢痛には、失った部位をふたたび動かすことができるかのような刺激を脳に与えることによって、症状が改善することがあるといわれる。なくなった町を手探り、語り、辿ってゆく今日のみち路は、それと同じではなかったろうか。彼女は、あるいは、私たちは、失ったものにひとつひとつ「かたち」を与えていく。「かたち」を与えられることによって、少しずつ、失われたものがなにだったのかをようやく了解していく。彼女という依り代を通じて。
この十年もの間、私たちはなにを失ったのかについて、ついぞ真剣に考えてくることをしなかった。考えることを拒否することによって、失ったという現実そのものを否定できるかのように、向き合うことを避け続けてきた。そのことは、私たちの痛みをさらに強め、身を苛んでいるにもかかわらず、その痛みは別のところから来るのだ、と自分たちに言い聞かせようとしてきた。
このみち路は、そんな十年とは別のところからはじまった。震災の時には中学生だった彼女は限られた生活圏の町しか知らない。止めていた時間が動きはじめた時、彼女は自分が失ったものはなんだったのか、自分に問うことにした。その問いは、きわめて私的なものだ。だから、飾りがなく、また、嘘もない。ただ、痛みに誠実であろうと、てのひらで愛おしむようにひとつひとつ、痛みのでどころを手触り、その姿を確認していく。
そうして浮かび上がる幻肢としての街は、断片的で、不完全で、たどたどしい。けれど、このようにトレースされた不完全な街の絵姿を幾枚も幾枚も重ねることによってしか、きっと私たちはなにを失ったのかを知ることはできないのだろう。
冬の浜通りに吹く風は乾いて、冷たい。更地になった自宅跡に立つ彼女が、幻の自宅に向き合う。ひとつひとつ記憶をたどり、ありかを探し、幻肢の形を浮き彫りにしていく。その作業を通じて、痛みに名を与え、意味を与えていく。そこに人がいた、暮らしがあった、歴史があった、物語があった。この痛みは、決して無意味な痛みではない。そうしてふたたび形を与えられた幻肢は、ただの過去ではなく、あたらしい姿を獲得している。かつてこの通りをただよっていた金木犀の香りをまといながら、来たるべき未来の姿をしている。
注記:
本稿は、パフォーマンスユニットhumunus ツアープロジェクト@福島県富岡町「-うつほの襞 / 漂流の景-」 の感想として書かれた。
ツアープロジェクト作品はhumunus主催であり、クリエーションはhumunusと富岡町生まれの秋元菜々美氏が共同で行われた。本文中の「彼女」は、秋元氏のこと。本文筆者の安東が秋元氏と面識があったため、感想は、秋元氏が中心となる記述となっているが、作品の全体の絵を描いたのはhumunusである。
作中に出てくる美術家は、井手則雄氏。