震災後、原発事故による避難で故郷を離れることを余儀なくされた住民達。各地に散らばってしまった住民をつなぐため、どんな取り組みが行われてきたのか、そして、文化の持つ意味についてまとめていただきました。
境野 健兒(福島大学名誉教授)
今回のダイアログのテーマは「原発事故と伝統」です。このようなテーマを設定したのは、原発事故による住民の避難、そして避難指示解除のなかで、地域の人々をつなげるにはそれに見合う文化の意味を考え、深めてみようという思いがあるように思います。今回は、伊達地区の事例もありますが、飯館村のことも大きく取りあげられました。ダイアログの場で、飯館村に伝わる手踊りに実演も用意されましたが、それは原発事故のなかでの伝統文化の持つ意味を考える事例として紹介されたのだと思います。本稿は、2014年12月のダイアログゼミで話をしたことを整理し、お伝えしたいことに絞ってまとめてみました。
1.避難先で演じられた伝統芸能
原発事故前の地域の暮らしと人々のつながりであるコミュニティが崩壊したなかで、唯一それを象徴している地域文化である伝統芸能が被災地で披露されてきたことは記憶に新しく、かつ印象深いものでした。
被災地の仮設住宅の広場で祭りや行事に合わせて、その地域に伝わる伝統芸能が披露され、行事を盛り上げてきました。飯館村の場合でも、仮設住宅の行事に加えて村外で開催された村の文化祭でも多くの伝統芸能がプログラムを飾りました。特に、避難を余儀なくされたお年寄りは、住み慣れた飯舘村を思いだすかのように椅子に座りながらも手や足を動かし、涙する老人も少なくありませんでした。その光景を見ながら、伝統芸能にはふるさとの香りが凝縮しているのだと思いました。
地域を追われても、地域の文化は、ふるさとへの郷愁、懐かしさ、励ましなど、精神的な支えとなったのです。昔から伝わる文化なのですが、すごい底力をもっているように思いました。
2.伝統行事における伝統芸能の意味
伝統芸能が地域にとって持つ意味を考えてみることにします。私は20年以上前から飯館村における伝統芸能による地域づくりに学ばせて頂きました。今日、ここでお話ができるのもそうした経緯があるからと思います。私は、民俗学を研究しているのでなく、教育学・地域教育の立場から伝統芸能による子どもの育ちに興味持ち、福島県内では三島町西方の「虫送り」行事、新地町福田の「子ども神楽」、二本松市の提灯まつりを調べ、論考を積み重ねてきました。教育学の専攻ですが、子どもの育ちの原型を知る上で非常に興味深いものでした。
伝統芸能は地域の祭りの行事の時に神社に奉納し、地域の農作物の豊作を祈願する、災害からの安全を祈願する、あるいは地域の人々の無病息災を念じて演じ、その厄払いの意味を持って、日本の地域における文化の基層となってきました。つまり、自然の力に頼り、また自然の脅威が収まるようにお願いする営みであったように思います。
ところが、日本には実に多くの地域で、多様な伝統芸能が繰り広げられてきましたが、心細いほど少なくなり、「伝統芸能の存続の危機」と言われ続けてきました。特に、1960年代以降の農業の近代化、兼業化、特に第二種兼業の進行、あるいは過疎化、そういう中で消滅の一途をたどってきたことは言うまでもありません。少子高齢化や若者の流出で担い手不足と言われましたが、特に、科学技術の発展による農業の生産力の向上は、「祈り」の世界を遠いものにしたのでした。
伝統芸能が地域からなくなって当たり前のなかで、それでも形を変えながら(長男だけに限られたものが次男・三男でも、男子から女子にも、子どもを含んでなど)地域に受け継がれてきている事例も少なくないのです。なぜ維持されているのかを考えることは実に興味深いことです。それは、人々をつなぐ力を伝統芸能が持っているからではないだろうかと思い、飯館村のことを「伝統芸能の継承と復活と地域の共同」(『小さな自治体の大きな挑戦』八朔社、2011.11)という論考を書きました。
3.伝統芸能による地域づくり一飯舘村
1)ユニークな自治体総合計画
飯館村は、1994年に「やさしさと活力にあふれたクオリティー・ライフ いいいたて」をテーマした第4次総合計画を作成しました。自治体の総合計画はどこの自治体も作成しますが、飯館村の場合は計画の半分が住民参加による地区別計画となっている、実にユニークな総合計画になっていることです。
地区別の地区は行政区なのですが、もう一面は江戸時代の独立した村であり、住民の共同の場であり、顔の見える関係、息遣いの分かる関係が維持されている場でした。飯館村には20行政区ありますから、一つの行政区は300人から400人程度の小さなまとまりのある地域でした。地区別計画の計画された事業ついては、村が90パーセントお金を出し、10パーセントは地域住民が出しなさいということで、上限は1000万円で決められました。行政区における地域づくりの奨励としては随分と気前が良いものでした。さらに、ハードなものの計画はダメで、ソフト事業に限定され、地区住民が参加して、自分たちの暮らしの質や文化を自分たちの地域で豊かにしていくことが目指されました。住民の参加、自治による地域づくりへの挑戦といってよいでしょう。
2)伝統芸能と地域
驚いたことにこの地区別計画をみると、なんと20行政区中18行政区で、伝統芸能の継承と復活を挙げているのです。中身は衣装の新調や洗濯代、小道具の修繕や新調などの必要経費となっています。これだけをみても、どこの地域でも伝統芸能を地域づくりの柱に据えていることがわかります。特に、地域から消えたものを復活させるということは相当なエネルギ一を必要します。住民の地域への思いをそこに読むことができるでしょう。
飯館村の伝統芸能っていうものを調べてみますと、消滅してしまった芸能、維持されているものを含めて非常に多くの芸能があることに驚きます。種類は神楽、田植え踊り、獅子舞、手踊り、宝財踊り、万歳と多様です。さらに、それらのいくつかは行政区(昔の大字)より小さい単位で、生活に密接している字で、行われてきた事例もあります。
これらの伝統芸能を財政的に維持するために、原発災害前まで村は毎年3団体による発表会を行い、その団体に奨励金を出して、その維持に努めていました。また、行政区では伝統芸能の保存会を組織し、地域全体でその保存活動に取り組んでいました。獅子舞、神楽などは、厄年の人がいる家をまわり、無病息災のお祓いすることも恒例となっていますが、その時の御礼のお金も伝統芸能を支えるものでした。このように、伝統芸能は地域が財政的な基盤となっていました。
3)伝統芸能の担い手
伝統芸能は担い手があってこそ維持できるのです。昔は、担い手の生業はほとんどが農業でした。現在は、職種も多種多様です。練習をとっても仕事の関係で時間を揃えることが難しく、相当な努力を互いに仕合、維持されてきました。私の調べた中には、住むところは飯館から離れても、練習の時は必ず飯館に戻ってくる例もありました。つながりという言葉だけでは表せない絆の強さを知ることもできました。
一口に伝統芸能といっても、先に申したように小道具、当日の着付けやお化粧など、地域の婦人たちの出番となっています。地域全体の持てる力を出し合って伝統を維持しているのだと思います。
伝統芸能は、すべてが伝承となっています。笛や太鼓なども譜面があるわけでもなく、経験者からじかに学ぶことになりますし、踊り方も今はビデオがありますが、やはり経験者から手ほどきを受けるわけです。つまり、年上のものから年下の者への伝承で維持されています。つまり、世代間の交流の場にもなっているのです。
このように、伝統芸能を通じて、人々のつながりや協働のある地域づくりがこういう形で創られてきたように思います。ですから地域づくりというのは、建物を造ったり、工場を誘致したり、目にみえるにぎわいづくりだけでなく、人々がみんなばらばらになっていくような状況の中で、つながりを作ってことも地域づくりではないかと思われます。地域づくりというのは、人と人をつなげて、地域生活を維持し、取り戻して行く試みといえます。
4)原発災害によって失ったもの
原発事故によって飯館村は計画的避難区域に指定され、その後線量が高い帰還困難区域と居住制限区域・避難指示解除準備区域に再編成されました。飯館村は工場と老人ホームを除いて、住民はみな避難することになりました。村は村のつながりを大切に思い、可能な限り住民がまとまるようにと、学校や仮設住宅を福島市に設置しました。しかし、一人ひとりが選択する避難は、コミュニティを崩壊させるに十分でした。長い歴史の積み重ねでできた地域のつながりがこの事故によって、あっという間に無くなったのです。村外でもつながりを維持しようと村は自治会を立ち上げたり、地区住民の交流会を支援したりと、地区の集まりを大切にしてきましたが、村外での人々の生活基盤は多様化し、つながりは脆弱なものになりました。仮設住宅や借り上げアパートから一人ひとり、新しい家を求めて新しい生活を選択し、離れていきました。子どもを持つ親は、「子どもの高校進学を考えるなら村に帰るよりは福島市内いた方が良い。飯館に戻るのはその後のことだ」と複雑な心の内を話してくれました。
避難指示が解除されても村に帰る人は少ない状況で推移しています。他方で、少なからずのかたが避難先に家を求め、飯館でも家を修復・新築し、行ったり来たりの生活をしていますが、生活の基盤は避難先というのが実状だと思います。飯館でのコミュニティは壊れて、再生は厳しいものがあります。また、多くの避難者は住民票をそのままにしていますが、村外での生活に重きが置かれていますので、実質的に急速な少子高齢化が進んでいます。ですから、地域の復興の深刻さは増し、地域生活を基盤にした伝統行事・伝統芸能の存続の危機が早まっているように思われます。
5)心の奥にある「ふるさと」
原発事故による災害は、避難生活の長期化を促し、多くの方が生活設計の変更を余儀なくされました。事故当時の不安、恐怖で村に足を入れることが出来ない人もいますが、多くの方が村の暮らしを懐かしんでいます。自然のおりなす美しい光景、生活の歴史を刻んだ家や地域のつながりのある暮らし、一人ひとりが違うけれど自分を育てたふるさとがあるように思います。子どもを避難先にある飯館村の学校に通わせる母親と話をした時に、「ここに来ると方言で話ができ、安心できる」と避難していてもふるさととつながっていたい思いを語ってくれました。
こうした思いがこのダイアログの場で演じられた手踊りの舞にも見ることができます。避難した場所は違っていても、伝統芸能を演じることで一堂に会し、息遣いをくみ取り、動きを合わせという演じる人の心遣いが見えてくるのです。なかなか説明はできないのですが、伝統芸能は演じる方も見る方にも、人々の心をうずかせるものがあるのではないかと思います。太鼓や笛の音を聞くと、そのリズムに対応して、体が動くという力を伝統芸能は持っているように思います
さらに、飯館村の場合でも、他の避難地域でも自由意思で避難したのでなく、一斉に故郷を追われました。人間っていうのは追われれば追われるほど、ふるさとへの思いを強くするのではないでしょうか。ですから、飯館の人たちが悔しい思いをしながらも、そういうふうにふるさとを思っている、それが伝統芸能を思う気持ちと重なっているように思うのです。
4.伝統芸能に学ぶ子どもたち
避難したところで、多くの自治体は仮設校舎を建て、学校を再開しました。子どもの数は減少し、一部を除いて小さな学校となりました。それらの学校で「総合学的学習の時間」に、ふるさとのことを学ぶことが意識的に重視されました。名称は「郷土学習」、「ふるさと学習」、「ふるさとなみえ科」です。また、双葉教育復興ビジョン推進協議会は、こうした学びを交流する場として「ふるさと創造サミット」開催してきました。避難先で避難前の地域に学ぶという、とても考えさせる動きです。
1)飯館中学校における田植え踊り
飯館中学校は、生徒数が半減し、しかも工場の跡地を利用した仮設の学校で授業を行っています。2015年から「総合的な学習の時間」を活用し、一年生は田植え踊り、二年生は地域に伝わる民話、3年生は地域に伝わる伝統食となっています。少し詳しく飯館の田植え踊りについてみておきましょう。震災後は途絶えた田植え踊りですが、中学生の学びとして復活しました。衣装も女子は江戸妻で揃え、以前地域で大人がやっていたことを踏襲した本格的なものでした。学校の先生は指導することができませんから、化粧、着付けは地域の方がかかわり、謡や太鼓も地域の古老が担い、踊りの指導も関わって準備されてきました。この取り組みは県立福島県立博物館の田植え踊り再興プロジェクトもかかわり、踊りの振り付けも専門的でとても素晴らしいものでした。
田植え踊りを見学しながら、地域には素晴らしい文化があることを知ることができました。生徒が一緒に踊るというのは、踊る人同士が互いに意識しながら舞う姿に感動しました。また、教える地域の人が、とても熱心に子どもとかかわる姿をみて、「地域の方が子どもから元気をもらえる」場にもなっていたように思いました。
こうした実践に地域の伝統芸能の後継者育成を期待する人もいますが、地域のコミュニティがなくなっているなかでは不可能に近いと思われます。それでも、学校が地域に学ぶという世界を広げることで、地域の方と子どもの学びを深める機会になったといえます。何よりも、避難先の地域の人々に希望を届けたのです。
2)浪江・津島小学校における「ふるさとなみえ科」
震災後、一番早く地域に学ぶことを意識的に取り組んだのが浪江小学校でした(1年遅れて津島小学校が同一校舎に開校)。前述のように、総合的な学習の時間を利用して。「ふるさとなみえ科」を立ち上げました。地域の人に教えられながら、大堀焼への挑戦、地域の自然や文化などの地域を思いだすカルタづくり、みんなで演じる太鼓など実際の経験による、地域の良さを学ぶ科目にしました。そして、調べる、創作する、発表する、表現することを大切にし、まさに総合にふさわしい学びを提供してきたのです。
地域を追われ、避難先にある学校で、地域のことを学ぶ「ふるさとなみえ科」を立ち上げた校長先生は、子どもたちは将来、浪江出身という重い看板を一生背負いながら生きていくことになります。その重い看板とは、原発被災地出身であることです。将来、さまざまな差別に出会うかもしれません。そのために生きることより生き抜くことができる力を育てるのに、学校で出来ることは「地域が持つ自然、文化の誇り」だというのです。そのことを避難している町民を先生として学校に招き、地域と共に子どもを育てる実践を展開したのです。
伝統的な太鼓を演じるにしても、打つ姿勢を整える、打つバチをそろえる、みんなで呼吸を合わせることで、心に響く太鼓に向き合っています。子どもたちも大きな力をもっているように思いました。浪江・津島小学校は生徒数が減り続けるなかでも、先生も太鼓に加わって子どもと一緒に伝統を受け継いでいます。
子どもたちがさまざまな困難に向き合う時に。地域の誇りが必ず生きるぬく力になるのではないかという実践。避難した自治体の学校で、伝統芸能に学ぶ実践が各学校で行われるようになりましたが、そうした思いを共通して読むことが出来るように思います。
3)子どもが主役の請戸の田植え踊り
浪江町請戸地区は、津波と原発事故で壊滅的な被害をうけました。震災前には、安波祭りが行われ、半農半漁の地ですから豊作を祈願する田植え踊りも祭りの時に神社の前で奉納されてきました。震災後、踊り手である子どもは避難でバラバラになりました。世話人である大人の強い思いでの呼びかけに、子どもが応じて、各自の避難先から集まって、練習を積み重ね、継承してきています。
色鮮やかで、実に華やかな衣装をまとい10数名の小学生、中学生、高校生が、福島市内や二本松市内の仮設住宅で披露するなど、その都度テレビなどで放送されてきました。
練習や発表の機会は、各地に避難している子どもたちの交わりの場、そして交わりを深くし、互いに思いやる姿が、福島県教育委員会発行の道徳資料に紹介されていますが、真のきずなづくりとなっているのです。また、子どもを持つ親の交わりの機会にもなっているのです。これも伝統芸能が備える力といえましょう。それ以上に田植え踊りは浪江から避難した人々にふるさとの光景を思い起こさせているのです。「避難指示が解除されたら、海の前にあった神社で、以前と同じようにやりたいね」という言葉が心に残りました。
子どもにとっても伝統芸能に関わることは、地域の豊かな文化のなかに子ども同士、大人との関係を創り出すことになります。伝統文化が持つ可能性と言ってよいでしょう。飯館村の神楽でも震災後も若者を中心に引き継がれています。仕方なく継続をしているのではなく、バラバラに避難をしても、伝統芸能が結びつけるのだと思います。
震災後、復興という言葉が様々なところで発信されてきました。そのなかで地域の人々のつながりができてこその復興ではないかということも随分と聞かされてきました。しかし、避難前の地域でのコミュニティの再生は、とても難しい課題になりました。でも、ふるさとへの誇り、思いの共有、そして人々のつながりのために伝統芸能には大きな意味があります。そして、震災を背負いながら生きる力を育てる価値を持っているともいえるのではないでしょうか。