文章:安東量子
私たちのダイアログの起源は、チェルノブイリ原発事故のあとのベラルーシにあります。2019年のダイアログで、ジャック・ロシャールさんは、次のように説明しています。
ご存知のように、このダイアログのルーツは、チェルノブイリ事故後のベラルーシの被災した地域にあります。ここ福島で続けられる前に冒険がはじまったのは、90年代前半のいわゆるエートスプロジェクトの流れの中からでした。
それは長い道のりでした。疑念や障害、時には進む方向性について慎重さを要する決定もありました。スペインの詩人アントニオ・マチャドの言葉を使えば、この道は、歩くことによって作られました。そして、この道全体を旅した人々を勇気づけたもの、一部だけを旅した人も同じですが、それは人間に対する信頼です。
今日ここへ私たちを再び集わせたのは、この人間性への信頼であり、壊すことができないものだと、私は心から信じています。
引用元:
英語:https://drive.google.com/file/d/1IsyFikepmNU5OBJcFo-2PDrb-QY22AFe/view
日本語:https://drive.google.com/file/d/1YLL4aBxV8QbRGlNgpg-aXmyWiU5WMkqK/view
では、チェルノブイリの後の被災した地域は、どのような状況だったのでしょうか。そのことを知るために、ひとつの論文の内容を紹介したいと思います。
https://doi.org/10.1088/0952-4746/16/3/003
書いた人たちは、社会学者であり精神分析家でもあったフランスの大学教授と民間の調査会社のフランス人です。彼らは、欧州委員会の専門家のプロジェクトの一環として、ウクライナとベラルーシの原発事故の被災地域に調査にでかけ、被災地の人たちに聞き取りを行いました。
そこで目にしたのは、原発事故の被災地に暮らす人たちの置かれたとても複雑な状況でした。この論文のなかで詳しく説明されているのですが、ここではかいつまんで、かんたんに説明することにします。
まず、指摘されるのは、原発事故被災地の人たちの「ストレス」の高い状態です。
筆者の1人が精神分析家ですから、この場合の「ストレス」は、一般的な日常の言葉で言われる「ストレス」の意味とはちょっと違って、精神的な負担という意味だけでなくて、精神医学的な概念で、生化学的、神経生理学的な反応まで含まれます。そこで、なぜ原発事故の被災地ではこんなストレスが高い状態が引き起こされるのか、という考察がはじまります。
最初に著者が否定するのは、「放射能恐怖症(radiophobia)」という考え方です。
「放射能恐怖症(radiophobia)」という言葉は、チェルノブイリ原発の事故の後数ヶ月以内のすぐの時期に、ソ連政府とソ連国内の科学者によって使いはじめられました。原発事故後の日本でもしばしば目にした言葉です。ご記憶にある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ソ連政府や科学者にとって、放射能を恐れて混乱する人びとの反応は、あまりも「非合理的」に見えました。住民にどう対応していいかわからなくなった政府や科学者は、それを「心の病気=放射能恐怖症」であると決めつけたのです。著者は、それに強く反論します。
「恐怖症(phobia)」は、もともと精神医学の分野では、明確な定義のある症候群です。その定義では、無害である対象や状況に対して、根拠のない非合理な恐怖を抱くこととされています。その人にとって、その対象や状況は馴染みがあり、害がないことを本人もわかっています。それなのに、自分ではどうしようもない強い恐れがわきあがって、めまいや呼吸困難、不眠といった身体的症状もともなう、それを「恐怖症(phobia)」と定義します。
さて、放射能についてはどうでしょうか?
量によりますが、到底「無害」とは言えないでしょう。事故が起き、突然生活に侵入してきたわけで、人びとにとってはまったく馴染みがありません。「害があるかもしれない」と思っているから恐れているのであって、害がないと自覚されているわけでもありません。
とすれば、これに対して「恐怖症(phobia)」と呼ぶのは、本来の定義から考えるとまったく適切ではありません。正しくは、「放射能に対する恐れ」であって、「恐怖症」ではない。実際に、著者たちがチェルノブイリの被災地の人たちに聞き取りを行った結果でも、その恐れには、それぞれに根拠のある理由がありました。環境が汚染されたことへの不安、そのことが自分や家族に影響を及ぼす心配など、その説明はしっかりとしていて、非合理的でコントロールのできない恐怖といった病的なものはどこにも見出せませんでした。
精神医学の専門家である著者は、きっぱりとそう言います。
チェルノブイリ事故から5年ほど経過した1991年頃には、専門家の間でも「放射能恐怖症」という考え方は下火になり、代わって「ストレス」という捉え方が主流になります。けれど、専門家と当局が、一般住民の根拠のある恐れに対して「放射能恐怖症」と決めつけたことは、とても大きな負の影響を残しました。「恐怖症」と決めつけることは、つまり、人びとの感じていた恐れを根拠のないものだと否定することになったからです。
自分なりの根拠があった上で恐れていることを、当局や専門家から「病気だ」と決めつけられたら、どう感じるでしょう。大抵の人は不快に感じ、怒り、そう決めつけた当局や専門家を「信頼できない」と思いはじめるのではないでしょうか。チェルノブイリの被災地で起きたのは、そういうことでした。そして、この状況そのものが、さらにストレスを増すという悪循環につながったのです。
放射能は、住民にとっては未知のものであり、対応していくためには、専門家の手助けが不可欠でした。ところが、その専門家が信頼できなくなってしまった。これはとても不幸な帰結でした。
それ以外のストレスを高める状況はどうだったかというと、事故前の社会条件や文化状況も大きく影響した、と著者は言います。事故の起きたソ連は、社会主義国家で、計画経済の体制がとられ、あらゆる社会的な取り組みは国家によって統率され、計画的に進められることになっていました。そして、その社会は科学技術に支えられているという自負がありました。事故はそれらをすべてひっくり返してしまいました。いわば、社会の基盤をなしている価値観そのものが事故によって否定されてしまったのです。
その上、事故直後、ソ連政府は事故の発生そのものを隠そうとしました。ところが、チェルノブイリ原発の近隣地域の人たちは、政府が発表せずとも、その目で事故を目撃した人もいましたし、また原発で働いていた家族や知り合いの情報から、異常はすでに察知していたのです。その後の当局の対応も、事故の被害は大したことがないと、住民を安心させようとするものでした。けれど、当局が発表した情報や対応は、住民がすでに受け取っていた情報とは矛盾していました。このことによって、当局への信頼もなくなってしまいました。
この論文では、事故後の「板挟み(double-bind)」の状況が、住民の無力感につながったと指摘されています。たとえば、原発事故の後は、住民は放射能に晒される一方、当局による測定の対象となります。人びとは、測定をする当局の人を専門家とみなして尋ねます。「放射能は危険なのかどうか教えてくれますか? リスクはあるのですか?」
「リスクがあるか、ないか」という問いは、答えることがとても難しい問いです。「あるか、ないか」の二つだけから答えるのであれば、それがどれだけ小さいとは言え、「ある」ことになるからです。リスクがあるけれどない、リスクがないけれどある。危険だけれど安全、安全だけれど危険。そういうどっちつかずの状況のなかに、そこに暮らす人びとは投げ込まれることになりました。
「どっちかわからない」ということは、「どうすればいいかわからない」という思いになり、「どうすることもできない」という感覚につながります。「どうすることもできない」ということが、「もうどうしようもない」という極端な悲観論と、「ではもう考えないことにしよう」といった運命に身をまかせる極端な楽観論へと、人びとの考え方をわけてしまいました。
投げやりな楽観論と絶望的な悲観論。自分たちが直面する現実について語り合うことが、とても難しくなりました。事故が起きて、社会は大きく変わったのです。その変化は目には見えないけれど、これまで信頼できると思っていたもの、たとえば当局、専門家、科学技術国家の自負といったものが信頼できなくなり、そして、これまで当たり前と思っていたことが、当たり前のように進まなくなってしまいました。これは、それまでの共通の世界観が壊れてしまったことを意味します。頭の中は大混乱となってしまったことでしょう。誰かと話して、現在の状況を整理して、状況を把握したい。誰もがきっとそう思うはずです。ところが、それができなくなってしまったのです。
状況を説明してくれるはずの当局も専門家も本当のことを言ってくれない。まわりの人とも語り合えない、社会への信頼がなくなった場合、ひとりひとりの人間は、それぞれで孤立してしまいます。何をどう判断するか、そのための、基本的な情報も状況も共有できていないので、それぞれが個別に入手した情報によって、個別に判断することになります。ところが、その情報を知らない人にとっては、その判断は理解できないものに見えてしまいます。
たとえば、「ここの放射能は危険らしい」という情報を入手した人は、黙って子供を避難させました。それは、その情報を持っていない人にとっては、理解不可能な行動に思えました。「安全なはずなのに、意味不明な判断によって、あの人たちは子供を遠くに逃がした。私たちには何も言わないで…。」そこで、人間関係は壊れてしまい、会話が成立しなくなってしまいます。
私たちの社会は、目に見えない、意識することのないお互いへの「信頼」によって潤滑にまわるようになっています。何かを判断する時に、あの人がこう言って(して)いるのだから大丈夫だろう、この人の判断に従っていれば安心だ、そんな風に無意識に、信頼できると思う人たちに判断をまかせて、数えきれないほどにある日々の確認作業を行わないで済むようにしています。
小さな、目に見えない信頼というたくさんの歯車が噛み合って、「社会」という大きな装置を動かしていると言えます。ところが、その歯車が回らなくなったり、不具合が生じてしまうと、「社会」はぎこちなくなり、日々の生活もとても居心地が悪く、それまでとは異質なものに感じられるようになってしまいます。チェルノブイリ事故のあとは、この歯車がうまく回らなくなってしまった結果、日常生活がとても暮らしづらいものになってしまいました。
これまで当たり前だった価値観が、根底からひっくり返されてしまい、その上、矢継ぎ早にこれまで経験したことのない出来事がおきました。個々人が孤立してしまい、話をすることもできない。遭遇するいろいろな未知のできごとをどう整理して意味付ければいいのかもわからない。ある程度の認識を共有できなければ、一緒に対策を考えることもできません。
どうしてこうなったのか、これからどうすればいいのか…。
確かなのは、事故が起きたことと、放射能がまわりにあるということ、そして、どうやらその放射能は危険であるらしいということ。
そして、混乱したままの生活と社会が残されることになりました。