NPO福島ダイアログ理事長 安東量子
私がダイアログに初めて参加したのは2012年の2月、第2回からでした。そのときは、参加者の1人に過ぎませんでした。会議の様子も勝手もわからず、熱気あふれる会場の席に座って、目を白黒させていました。熱気あふれる、とはいっても、必ずしもポジティブな意味だけではなく、一触即発といった不穏な空気が漂うこともありました。当時は、「混乱」と言うひと言では言い表せない、感情的な昂ぶりと衝突が起きていました。そして、そのことは今なお、福島のみならず、日本社会全体に影を落としているようにも思えます。
ダイアログの記録をまとめたいと言う希望は以前から持っていましたが、どこから手をつければいいのかわからず、そのままになっていました。今回、福島県による補助金事業として、福島復興のプロセスの一隅を照らす試みとして部分的にまとめることができました。とはいっても、記録が膨大であるため、時間的な制約も考えるとごく一部に限定せざるをえず、今回は、事故後、最も社会的影響の大きかった「分断」に的を絞ることとしました。放射線に関する取り組みについては、すでにまとめられたものが多くありますので、他に譲ることとし、少しばかりステロタイプな用語として多く使われるものの、実体の見えづらかった「分断」の内実がどのようなものであったのか、ダイアログの語りから描写してくことを試みました。
また、今回は、2011年から2015年のICRPダイアログ時代にほぼ限られています。これは2016年からは運営主体が変わったと言うだけでなく、内容に現地見学を取り入れ、取り上げるテーマや内容も避難区域・避難解除区域が中心となるなどの変化があったためです。2016年以降のダイアログについても、いずれ別の機会にまとめられればと思っています。
ダイアログの記録を文字起こししたものを通読し、気になる箇所に付箋を入れ、時に当時の写真や動画を見返しながら振り返っていく作業は、経過した時間を振り返るためのこの上なく貴重な時間となりました。慌ただしさの中で、その時々に引っかかりはしていても振り返る余裕もなく、置き去りにしていたことが多くあったことを今回改めて実感しました。
経験は、記録として固定しなければ、過ぎ去って忘却されるのみです。一方、固定化されたものだけが絶対的な事実でもなく、ダイアログについても、また別の見方が多くあろうかと思います。これは、あくまで、最初1人の参加者であり、その後、運営に携わることになった安東量子の視点から見たダイアログです。ほかの参加者の皆さんにとっては、他のダイアログの物語が流れていることと思います。
ダイアログに参加することになった当初は、自分が運営にかかわることになるとは思ってもみませんでした。今回、インタビューにご協力いただいた勝見五月さんと同じように、当初の世話人であった丹羽太貫さんから頼まれては参加者を紹介したり、それから、ネットに不案内であったICRPの面々に変わって資料をオンラインに掲載するといった部分で協力をしているだけでした。やがて丹羽太貫さんが広島の放射線影響研究所理事長就任に合わせて福島から離れ、ダイアログの地元運営の担い手のお鉢が少しずつ(あるいは突然に)私に回ってきて、最後には運営主体のNPOを立ち上げることになったというのが、ことの経緯です。
2012年から私がずっとダイアログにかかわってきた最大の理由は、ダイアログという場が好きだったからだと、今回、記録を振り返りながら改めて思いました。ひとつには、地震と津波の後に襲った原子力災害という極めて困難な状況に立ち向かおうとする参加者の皆さんのまっすぐな言葉が、もうひとつは、誰もが語ることを可能とさせるダイアログという場が、そのどちらも私は好きでした。
初めて、ダイアログに参加したときに、それまで持っていた会議や話し合いの概念とはまったく異なる形式に驚くと同時に、非常に感銘を受けました。そこでなにか派手な議論があったり、「立て板に水」の淀みない論理が展開されるわけではありません。(もちろんそういう場面も時にはありましたが。)
なによりも強く私の印象に残ったのは、しばしば、口ごもり、言い淀み、波立つ感情を抑えながらも一語一語考え、そして他の人の話を聞いて自分の言葉を言い換え、ときに撤回するような、逡巡交じりの意見交換を可能とする形式でした。その内省的とも言えるプロセスを経ることによって、わかりやすい結論は出ないけれど、私たちがいまどこにいるのか、この先どこへ向かうのかと言った方向性が、結果として浮かび上がって来ました。そしてさらに、結論ではなく、参加者の逡巡を会場が共有することができることに、こんな会議の手法がありうるのか、と感嘆したのでした。なぜこれが可能となったのかは、私もひとりの参加者として長く疑問に思っていたため、今回、その手法をベラルーシでの経験まで振り返ることができたのは、自分の中の宿題をひとつ終わらせることができた気がします。
おそらく、ダイアログをさらに大きな、利害調停を必要とする住民合議型の意思決定プロセスと言った文脈の中に位置付けることも可能であると思いますが、それはまた別の宿題にしたいと思います。
ときに怒り、ときに悲しみ、ときに笑いながらのダイアログの記録を2012年からずっと眺めていると、日本社会では稀に見る自分の内面を言語化して話す場が構築されていたのではないかと感じます。もちろん、人により、内容により、語れたこと語れなかったことは多くあったかとは思います。ですが、その場で語りうる範囲においての課題は広く取り上げられているように感じました。自分の内面を言語化することに慣れておらず、自由闊達に語ることをよしとしない日本社会の中で、それが可能となったのは、ダイアログという場の設定もさることながら、空前の災害に投げ込まれた多くの人が「語りたい」という願望を強く持っていたからであるように思います。
そして、一方で、2011年から2015年ダイアログのプロセスは、その豊富な語りが失われていくプロセスであったと言えるかもしれません。大災害によって既存秩序が壊れ、現状を変えなくてはならない、と多くの人が強く思ったときに、語りたいことや語るべきことは噴出しました。ただ、それは非日常的な雰囲気がもたらした、日本社会における一時的なエアポケットのような現象だったのかもしれません。ダイアログでも以下のような指摘がありました。
日本の伝統的なコミュニケーションや集団の在り方は、まず話さない。こういった場面で話したり、はしたないことをする人へは、それだけで人間としてだめだとみなして排除する。古いしっかりとしたものをきちっと守る。私の印象だと日本はそれで繁栄してきました。ここの部分をどうやって乗り越えていくか。開く、語る、葛藤を葛藤として認めることが必要なのではないか思います。そうすれば、日本の大多数は変わると思う。(2014年5月)
もちろん、ダイアログの中では、ずっと語り続けられていました。そして、時間が経過するほど、その語りは雄弁さを増していったようにも思えます。ところが、それと並行して、水面下にある「語られない事柄」も増えていったような気がしています。時間の経過とともに、指摘された日本の「伝統的なコミュニケーション」が力を取り戻し、語ってよいこと、語ってはいけないことが次第にくっきりと分離していったのかもしれない、そんな風にも感じます。
今回は収録しなかった2016年からのダイアログは、現地視察を取り込むようになりました。それは、被災地、とりわけ避難区域となった地域の状況が大きく変貌し、言葉だけでは伝えられないものになって来たことに加えて、旧来の「語らない、語るものを排除するコミュニケーション」が力を取り戻して来た結果、無言のうちに飲み込む言葉が多くなって来た必然であったのだろうと今は思います。
けれど、それでも、私たちは語り合う努力を続けるべきだ、と私は信じています。ダイアログを通じて知り合い、ノルウェーとの相互交流の機会を作ってくれたノルウェー放射線防護庁(当時・現DSA)のアストリッド・リーランドさんに雑談の中で言われたことがあります。日本では風評被害や被災地への差別が問題になっている、と話したときのことです。彼女は、その話を興味深そうに聞いた後に、「それについて日本では公に議論はしないのか」と尋ねました。彼女にそう問いかけられて、私は初めて日本ではこうした問題について「公に議論をする」機会がないことに気づきました。そもそも「差別について公に議論をする」という発想さえ自分が持っていなかったことも驚きでした。もしそういう問題が発生したら、ノルウェーでは議論をするのか、と尋ね返すと、「テレビなど公開の場で徹底的に議論するよ。もちろん、それで結論が一致することはないだろうし、わかりあえるわけでもないかもしれない。でも、議論だけは徹底的にすると思う」と答えました。
このやりとりは、私の心に深く残り、ダイアログの中で起きた福島に生まれ育った人との結婚を忌避するかしないかというやり取りで、一度実践してみました。関係者の了承をえる時間がなかったため、今回は採録しませんでしたが、互いが何を考え、どこですれ違っていたのかが明確にできる議論ができたように思いました。
自分の考えを相手に伝えられるように言語化することは、訓練を必要とする技術のひとつであり、急にできることではありません。とりわけ、子供の頃から「黙って大人の言うことを聞く」「察して周囲に合わせる」教育が優勢で、その能力を培う機会が少ない日本では、成人したのちも困難をともなうことです。けれど、語り合うことでしか理解しあえないこと、共有できないことが社会には多くあります。社会の大きな変動期に差し掛かっている現在は、とりわけ、語り合うことの重要性が増していると思えます。原発事故後の福島で行われたダイアログという語り合うための試みは、社会をよりよくしていきたいという参加者の思いに支えられたものでした。このささやかな記録が、震災と原発事故から10年の節目の時に、あらためてその思いを思い起こす一助となったら、これに優る幸いはありません。
最後になりましたが、これまでダイアログの運営にご協力いただいた皆様に心から感謝申し上げます。ジャック・ロシャール氏がいうように、ダイアログは取っ手のないスーツケースです。誰のものでもないと同時に、ダイアログに関心を持つすべての人のものでもあります。また皆さんとスーツケースの宝物を増やすことができる日が来ることを心待ちにしています。
2021年2月20日
つづく