原発事故後、大きな社会的混乱が生まれたベラルーシでは、どのように日常生活が営まれていたのか。2013年7月のダイアログで発表したアナスタシア・フェドセンカさんの発表をここでご紹介します。
アナスタシア・フェドセンカさんの紹介
2017年7月ダイアログ ジャック・ロシャール氏による紹介より
アナスタシアは、ベラルーシのゴメリ州ブラギン地区のカポレンカという村で生まれました。チェルノブイリ原子力発電所からは20キロほどしか離れていません。(ブラギン地区は、チェルノブイリ原子力発電所の事故の影響を最も受けた地域の1 つです。)地元の学校に通い、1972年には獣医学校を卒業しました。事故が起きたときは、コルホーズの家畜部リーダーとして働いていました。
事故から10日後の1986 年5月4日、母と姉と一緒に村から避難しました。しかし、5月4、5日には、30キロ圏内からの家畜の避難を監督することになります。アナスタシアは、「リクビダートル」と呼ばれる、チェルノブイリ事故の後始末作業に従事した1人です。
1994年、アナスタシアは、クラスノエという村のコルホーズの放射線測定士になり、ネステレンコ教授のもとで、民間で生産された食品の汚染測定の仕事を始めました。そして、今もその村に暮らしています。放射線測定士という仕事では、食品や家畜の放射能濃度を測定するだけでなく、いろんな人達と話します。彼女がこれまで記録してきた毎日の測定結果が、過去20 年のコマリン地区の放射線状況の記録です。
2004年から2008年まで、フランスの放射線防護の専門家と、アナスタシアが住む地域の人々は「コアプログラム」と呼ばれるプロジェクトを実施しました。このプロジェクトは、子どもたちの放射線による内部被ばくの状況を改善するためのもので、彼女はここで中心的な役割を果たしました。
2008 年以降も、彼女は地域の人々のために働き続けてきました。また、自分の経験を、次の世代や西欧の専門家、そして福島で事故を経験した人たちにも伝える活動もしています。
ベラルーシのこれまで「ブラギンでの食品汚染と日常生活」
2013年7月第6回ダイアログ発表
https://docs.google.com/file/d/0BxqSmDmQ78xCSTlpOG91Nmlqanc
私の名前はアナスタシア・フェドセンカ。 チェルノブイリ発電所から約20キロ離れた村で生まれました。事故の後、隣の村に引っ越さなければならなかったのですが、そこは10キロほどしか離れていませんでした。私は今も、自分の地域で暮らし続けています。そして、地域の低線量放射線管理センターで働いています。私の仕事は、牛の飼育、食肉の生産、搾乳など、基本的には農業に関連しています。
1986年4月26日、実際に事故が起こったとき、私たちは、その事故がどれほど危険であるか全く知りませんでした。 当時、事故の情報は極秘だったので、近隣地域の住民は全く何も知らず、1週間ほどは普通に生活していました。 私の場合は、事故の3日後、男たちのチームと一緒に発電所から約15キロの地点に移動して、フェンスを建て始めました。1日中屋外で働きました。
4月29日、地元当局は、妊娠中の女性と15歳未満の子供の避難を決定し、その2日後、学童は全員避難しました。事故から8日後の5月3日の深夜2時、地元当局から電話がかかってきて、「避難の準備が必要だ」と言われました。土曜の午前2時に仕事に出かけ、帰宅したのは月曜日の夕方でした。
発電所から半径30キロを避難の対象としたため、村が分割されてしまい。村の半分を残りの半分に移動させるという、おかしなかたちになることもありました。避難は3日間だけだと伝えられていたため、住民は、書類、お金、いくつかの私物など、必需品のみを持っていくことが許されました。私たちといえば、牛の世話をしなければいけなかったので、鶏は全羽置き去りにするしかありませんでした。
(ダイアログでの)いくつかの発表で、放射線は通常の感覚では感じることができない「敵」であり、人々は、心理的に放射線を受け入れる準備ができていないというのを聞きました。コマリンでは、多くの人が避難に抵抗し、自分の村に留まることにこだわりました。
放射能汚染の地図をお見せします。この地図では、チェルノブイリとコマリンの位置関係と、ベラルーシの領土がどのように汚染されたかがわかります。特に、チェルノブイリからの放射性物質が、どのようにベラルーシ南部の地域に広がったのかがわかるかと思います。
避難は3日間の予定でしたが、他の村の人々も避難させた上で収容しなければならなかったため、実際には10月まで続きました。彼らが住める特別な住居はなく、みんな、他の村の人たちと一緒に暮らさなければなりませんでした。10月になってやっと、一時的な宿泊場所が提供されました。彼らの多くが、残りの人生をここで過ごすことになり、故郷に帰ることはありませんでした。
一方で、政府はようやく放射能汚染の問題に気付き、最初はかなり単純なものでしたが、必要な機器を提供してくれました。そして、環境ガンマ線のモニタリングを始めました。
それから20年間、私は放射線検査室で、獣医と放射線量測定士をして働いてきました。私の仕事は、全ての種類の食品のセシウム137による汚染状況を調べて、それを消費できるのか、破棄すべきなのかの最終的な判断を下すことでした。汚染レベルは下がってきました。
1999年、私たちは、1人あたり年間1ミリシーベルトのしきい値を設定しました。例えば、牛乳の場合は1リットルあたり100ベクレル、牛肉は1キログラムあたり500ベクレル、豚肉は1キログラムあたり180ベクレルと設定し、子どもにはより低い値を設定したことが重要なポイントです。
事故後の写真を見ると、通常の放射線測定器を使って子ども達を測定しているのが分かります。
村に設置された碑も写っています。村の人口81人で、44世帯、1987年と書かれています。
放射能汚染があまりひどくなかった村でも、私たちは除染を始めました。家の屋根を洗い、庭の上層の土を取り除きました。ただ、日本に比べて(重機を動かす)燃料が高すぎたため、農地の土壌の上層は取り除きませんでした。代わりに、実験の結果から、農地の土壌に十分なカリウムが蓄積されていると、農作物は放射性セシウムを吸収しないことがわかったので、農作物の放射性セシウムの濃度を下げるためにミネラル肥料を使いました。事故の直後、牛乳だけでなく、動物の肉もひどく汚染されていました。動物を殺してしまう前に、その肉を消費できるのかを判断するための測定が必要でした。
これらの作業はすべて、2004年まで州レベルで継続されました。2004年に、フランスの人たちが「コアプログラム」とよばれる計画を始めました。このプログラムの重要な点は、人々に放射線の安全対策や放射能汚染レベル下げる方法を教え、一般レベルでの放射線防護を、個人レベルに移行させていったことです。地域に放射線管理センターがつくられ、放射性物質の人体での内部蓄積の測定と評価が始められました。地元の科学者にとっては、やっと放射線の測定機器やコンピュータの設備が整いました。
この写真から、機器がどのように使われていたのかがわかります。
これは、私たちが撮影した測定記録の1つです。ここに全てのデータが表示されます。そしてこれは、私たちが個人や子ども達の測定を開始したときのものです。年に2回のホールボディカウンターでの測定です。測定結果が、子どもは1キログラムあたり20ベクレル、大人は70ベクレルを超えた場合、私のその家庭を訪問して、彼らが食べている物のサンプルをとって測定します。その結果を分析し、汚染源を特定します。その後、その家庭に戻り、結果を説明して、何を食べてはいけないのかを教えます。
この図では、2004年以降のブラギン地区の子供たちの内部被ばくの状況の変化を見ることができます。最初の測定結果は衝撃的でした。一部の子ども達は、1キロあたり700ベクレルという結果でした。1人の男の子にいたっては2000ベクレルを超えていました。劇的な変化は2004年に起こりました。その年の春の平均は200でしたが、秋には100になっていました。現在の結果は驚くほど異なっていて、20を超えるケースはほとんど見られません。これらの測定はすべて無料で行われました。食べ物について心配なことがあれば、いつでも地元の放射線管理センターに行って測定できるという環境が徐々に整ってきたのです。私はセンターにやってきた人たちに、どの食べ物が危険なのかについて詳しく説明しました。例えば、野生の食べ物などです。猪の肉の放射能濃度はキロあたり10000ベクレルに達してしまうため、猪を捕まえても、食べてはいけないのです。
コアプログラムのほかには、子どもたちの教育のためのプログラムもありました。子どもたちに放射線の安全対策などについて教えるために、さまざまなスタディグループがつくられました。保護者とのミーティング、ボランティアの人たちのためのクラス、事故を経験した人の講演などを開催してきました。Blade of Lifeという別の組織もできました。この組織の長は女性で、村のパブ、図書館、医療や教育の機関で、安全な生活づくりに関する文献や勧告を、妊婦や子どもたちに配布してきました。
汚染地域で27年間生活した私の個人的な経験から言えることは、簡単なガイドラインと安全のためのルールに従うことで、安全に生活することは可能だということです。最初の頃のガンマ線の図と比較すると、この27年間で、その線量は半分になっているのがわかります。組織化された測定のシステムをつくりあげることが、放射線の安全対策でもあるのです。1つの放射線管理センターがあっただけというわけではなく、衛生研究所、地域情報センター、家族、林業組織、中央と地域病院など、たくさんの他の組織と連携した取り組みがあったということを伝えたいと思います。
以上が私の発表になりますが、最後に一枚の美しい写真を見せたいと思います。これが私の住んでいるところです。この川がベラルーシとウクライナの国境となっています。川の水は綺麗で、魚を捕まえることもできます。14ベクレルしか検出されません。数キロ先でも魚を捕まえることができますが、そこでは1000ベクレルくらい検出されてしまいます。
(おわり)
アナスタシアから福島へのメッセージ
2013年7月第6回ダイアログ総合討論にて
ダイアログに参加する機会をいただきありがとうございます。日本、そして福島に来れるとは夢にも思っていませんでした。みなさんの対話をしっかり聞かせていただきました。そして、みなさんが経験したことは、私たちの経験と非常に似ているものだということがわかりました。みなさんと私たちは、姉妹であり、兄弟であるような感じがします。
若い母親たちのプロジェクトについての発表がありましたが、ベラルーシでも似たプロジェクトがありました。そのプロジェクトの子どもたちは大人になり、すでに子どもや家庭を持っていたりします。
ただし、基本的かつ根本的に異なっているところもあります。私たちは、原子力発電所の事故を経験した最初の人々でした。みなさんは、私たちの直接の経験を知ることができ、そこから多くのレッスンを引き出すことができると思います。その意味では、日本は少しだけ有利かもしれません。
そして、私たちが使っていた測定機器、ホールボディカウンターは非常に古いものだったため、測定に苦労しました。その点で、日本は進んでいると思います。なぜホールボディカウンターによる測定結果は2004年からしかないのかと質問されたことがありますが、答えは非常に簡単です。それ以前には、ホールボディカウンターはなかったのです。
コアプログラムの開始後、このような機器を使えるようになりました。今日、ベラルーシでのこの機器を使うことができるのは、恵まれていることだと思います。政府は、年に2回、ホールボディカウンターによる測定を義務付けています。
事故から何年も経ち、多くのことが変化し、放射線量は減少しました。でも、私は医療センターに行き、データを集め続けています。放射線量が高いケースを見つけ、それが見つかった家庭に行き、汚染源を見つけるためです。そして、そのような家庭との協力を続けています。
私は、福島の村の人たちの思いがよくわかります。私も同じような村から来て、同じような経験をしてきました。心理的なプレッシャーもありました。私たちも彼らも、モルモットと呼ばれたりもしました。私は随分「痩せた」モルモットですが、70歳で、まだまだ元気です。
人々を教育し、汚染地域の危険な状況に放射線の安全対策の簡単なルールを適用することを教えてくれたコアプログラムに感謝しています。今日のベラルーシでは、放射線の安全対策のための教育プログラムの普及に努める人たちもいます。私たちは、そのようなプログラムに実用的なものにしようと努力しています。例えば、実際に測定器を使った、子どもたちの勉強会を行っています。私たちが測定を実演するだけでなく、子ども等が自分で測定を行うことで、測定についての理解を促すものです。
ダイアログの全ての報告や発表に耳を傾けましたが、いろいろなグループが、科学的方法で取り組みをされてきたことは、とても素晴らしいことだと思います。今は、グループとして取り組みをしているかと思いますが、次のステップとしては、それらを個人レベルでも行っていく必要があると思います。時に、人々は恐怖によって結びつきます。でも私たちは、(恐怖の原因となっている放射線を)測定できることを示し、それに対してどんなことができるかを説明することで、彼らにアウトリーチすることができます。
そして、今回のダイアログでは、年間の放射線被ばく線量に関する国際基準を受け入れることについて何回か触れました。国際基準は、内部被ばくや外部被ばくなどの様々な被ばくの種類や、環境放射線などのさまざまな要因を考慮して作られています。でも、最も重要なのは、様々な食品を消費することによって起きる内部被ばくです。もし食品中の放射能濃度の基準が作られていないのであれば、それを確立することが非常に重要だと思います。
みなさんのセシウム134と137との戦いや、除染の取り組みがどれだけ大変なものなのかはよく分かります。セシウムは非常に厄介で、ベラルーシでも検出され続けています。私は20年以上測定をしていて、今では年間800から1000件の検査を行っていますが、そのうちの約15パーセントからはセシウムが検出されています。でも、飯舘村のかぼちゃ作りの発表を聞いて、彼の努力と熱意に勇気づけられました。彼の種をベラルーシに持って帰りたいので、税関が許してくれることを願っています。
これまでに、食品中の放射性物質の蓄積は、必ずしも土壌の汚染状況ではなく、植物の生態に大きく依存していることがわかりました。例えば、汚染された土壌で栽培されたにもかかわらず、トウモロコシはきれいでした。一方で、豆、エンドウ豆、大豆などの豆類の放射能濃度は、 4、5倍高くなっていました。繰り返しになりますが、これはほんの一例です。 私は何年も測定してきましたが、 ディルのような単純な植物は68~70ベクレルでした。 それに比べて、キュウリやトマトなど、最大でも12ベクレルしか検出されない野菜もあります。
私が言いたいのは、必ずしも除染が全てではないということです。 時に、それは何を食べるかという消費の問題です。 そして私は、内部被ばく線量を下げるためにはさまざまな方法があることを学びました。高いレベルの放射線蓄積が体内にある場合、放射線検査に行く必要があります。
発表を聞いていて、みなさんの熱意と意欲をとても感じました。 みなさんの取り組みが成功することを確信しています。そして、みなさんの幸運を祈っています。
(編集・日本語訳 児山洋平)