文章:安東量子
ダイアログは、それぞれの会のテーマや参加者によって、雰囲気が違っていましたが、教育や子育てに関する議論の時は、どこか気詰まりな雰囲気が漂っていたことが多い気がします。奥歯に物の挟まったような、言いたいことを喉の奥で飲み込んだような、それは、学校や子育ての現場で放射能のことについて語ることの難しさを反映していたのかもしれません。
学校現場での当初の対応が難しかった原因のひとつには、保護者や教員の間でも認識が一致していなかったことです。学校現場での放射線に対する教育の重要性については、熱心な議論が行われました。
理科としての放射線教育の内容については問題ないのですが、放射線にどう対応していくか、身を守るかという時には、指導者自身、あるいは保護者の方にも放射線基準についての考え方が違います。教員の中でも、考え方の中に若干温度差がありました。(2012年11月)
本当に人によって色々で、考え方が全然違う。そこにセンセーショナルな情報もどんどん入ってくる。そもそも、先生が納得していないことは、子供にも教えられない。何を拠り所にしていいか、していけばいいのかが私たちの前に横たわる大きな問題です。(2012年11月)
教員の中での温度差がある状態で、統一した方針を決めることは、とても難しいことでした。時間の経過とともにデータも出揃ってきましたが、当初は、話をするためのデータも不足していました。そうなって来ると、データに基づいて説明するということ自体ができません。自分が納得していないことは、生徒にも説明できない。それはもっともなことでした。うまく学校内での授業ができたケースでは、教員の中で研修を行い、教える時のルールを決めたという話も紹介されました。安易に、「大丈夫」「危険」と言った言葉を使って結論を言わないで、最終的な判断は子供自身や保護者にしてもらうようにする、原発に対して反対であるとか、除染をしても無駄だということを教師が言わないようにするなどです。学校内でこうした方向性や意思の統一ができたところでは、話をしていくための「拠り所」をうまく作るところができたのだと言えるかもしれません。
そうでない場合は、学校は、とても多くの人が関係する場所であるだけにとても難しい状態になってしまったこともあったようでした。教育機関に関係して来るのは、学校と子供たちだけではありません。保護者である子供たちの両親や家族の間でも対応についての考え方が違うこともしばしばでした。そうなって来ると、学校としてはもうどうしていいかわからない、という状況に近くなってしまいます。
各家庭の放射線に対しての子育ての方針が違う、これを多様性と捉えて言っていいものなのか。この先、学校で受け止めていくには、すごく難しいところがあると思います。いまの現状では、心配している人がいる限りは、その考えを尊重してそちらに合わせるような形で学校としては対応しています。(2014年8月)
教育や子育ての議論で特徴的なのは、当事者である子供がその場に参加することが少なかった、ということです。保護者やPTA、教員や支援者は参加しても、子供自身は参加していないことがほとんどでした。大人たちは子供を守らなくてはならないという、職業的、倫理的な義務を負っていました。そのことがよけいに気詰まりさを増したのかもしれません。自分のことならば、どんな風になったとしても、最終的には自分一人が負えば済むことですが、人のこととなると、そうは行きません。ましてや、守らなくてはならない子供のこととなれば、なおさらです。ダイアログの子育て世代の言葉から、それは感じられます。
母親も人間なので、ストレスを抱えます。不安の中で子育てをしていく中で、子供に当たってしまって、「虐待」と聞くとハッと思う時もあります。子供を叱っている時に、もしかして虐待と思って悩んで、寝ている子供に「ごめんね、叱って」と謝って、眠れない夜を過ごすということもありました。(2014年8月)
ほかの保護者の言葉を聞いていた一人の子育て中の女性が、こんな言葉を漏らしたこともありました。
責任感がこんなにも苦しめるのか、ママという責任、職場という責任。今日、みなさんのお話を聞いてそんな風に思いました。(2014年8月)
もしかすると、子育ての重い責任をずっと背負ってきた自分自身のことであったのかもしれません。
当時、その場にいてずっと議論を聞いていても、今回、記録を読み返してみても同じように感じるのは、子育てに携わっている人たちの間に漂う、追い詰められているような孤立感です。原発事故のあとは、大なり小なり、孤立したり追い詰められたりしたような感覚を抱いた人はいると思います。けれど、それにしても子育てに関わる人たちのそれは、格別であるように見えます。なぜそんなに追い込まれてしまっていたのでしょうか。ダイアログのなかでは、こんな分析もありました。
政府も信用できない、専門家も信用できない。いったい何が正しいのかわからない状況の中で、子供を守れるのは親しかいない。その子供に対して、自分ができる最大限のことをしてやろう。(2013年3月)
ここでも「信用」の重要性が語られます。ただでさえ子育ては悩みが多いものです。それでも、周囲の力を借りたり、助言を受けたり、助け合ったりしながらして、子供を育てて行きます。助け合うにしても、助言を受けるにしても、前提にあるのは、信頼関係です。ところが、原発事故の後は、その前提となる信頼関係が壊れてしまいました。助言をしてくれるはずの人たちも信用できるかどうかわかりません。相互に助け合う関係が壊れてしまえば、たった一人だけで子供を守らなくてはならないという感覚に襲われてしまうことは想像に難くありません。少なくない人たちが、そんな状況に陥っていたのかもしれません。
特に子育ては、ただでさえ不安になって悩みつつ子育ててしていくのですから、いまの福島県の状況のように家族が分断されて、地域やコミュニティが壊れている状態では、自分だけを信じていくしかない、自分の判断だけを信じていくしかない、という状況にお母さんたちはいるんじゃないか。(2014年8月)
何も頼りにならない中で、自分の判断だけを信じるというのは、とても孤独で、そして、心細いことだったことでしょう。
福島で子育てをすることに向けられる関心も、子育てに携わる人たちを孤独にさせた原因のひとつでした。
当時、子供さん、3年後に癌になりますよ、と指を差されて言われたり、子供に何かあったらどう責任を取るつもりなんだ、と問われたことはありました。(2014年8月)
福島県内の学校や保育園では、原発事故の直後からいち早く対策が取られていました。まだ行政の動きが整わないうちから、支援者やボランティア、そして保護者・PTAの力を合わせながら、放射線量の測定にはじまり、勉強会や除染、給食があるところでは安全な食材の確保や食品測定など、関係者の努力で手探りの中、さまざまな対策が取られていました。けれど、それでも、保護者の不安は拭えず、また、苛立ちを募らせた人から時に心ない声が向けられたこともありました。100パーセントではないにせよ、せいいっぱいのできることをしているのに、心ない言葉を向けられるのは、どれほど辛かったことでしょうか。ただ、これは、原発事故の後に限ったことではない、という指摘もありました。
通常でも、日本は他の国々に比べて、母親だけに子育ての責任と負担を負わせられるというのは、昔から言われていることです。福島の母親だけの肩に、その負担が負わせられるのは、非常につらいものがあると思います。(2015年9月)
災害の時には、「構造的脆弱性」が露わになる、という専門家による指摘もありました。(2013年3月ダイアログ「保健医療インフラについて」小早川義貴氏発表)。これは、元々の社会にあった問題、つまり「脆弱性」が、災害をきっかけとして増幅された形で目の前に現れてくる現象のことです。子育てについてこれを当てはめて考えると、もともと日本社会では、子育てを担う主として母親に多くの負担を負わせ、孤立した状態になりやすい形になっていたということかもしれません。そして、それが原発事故をきっかけとして、より強まってあらわれてきたということになります。
この子育ての孤立が、さらに強まった形になってあらわれたのが、自主避難した人たちについての話題でした。ダイアログでは、最初の頃から、避難区域以外から避難した人たちについても、声をかけて参加してもらっていました。
最初の頃から指摘されていたのは、行政制度は、そもそも県外への避難者を想定したものとなっておらず、自治体には対応できない、ということでした。制度の根本として「自治体」は、その地域内に住んでいる人に対して行政サービスを提供することになっています。地域外に出て行った避難者に対応する態勢もスキルも持ち合わせていませんでした。自治体の使命として、住民流出を加速させるような施策は本来打つべきではないというところがある、との指摘もありました。その結果として、避難先にいる人たちは、元々暮らしていた地域との関係が薄くなり、支援も情報も非常に入りづらくなっているという状況も語られました。
時間が経過して、自主避難の人の数が減るにつれ、ダイアログへ参加を誘っても参加しづらい、との返事も増えてきました。これは、福島県内に戻って自分の状況を語ることへの抵抗感、語っても福島県内に残った人たちに拒否されるのではないかという恐れが強かったためでした。
避難している人の中には、自分が避難してきていることを言わないで生活している人もいると聞いたこともあります。残してきた家族の問題や、子育て仲間がいたのに、自分だけここにきて後ろめたい、という気持ちを抱えているとのことでした。県外から福島に戻ってきたという人でも、戻ってきてみんなに歓迎されていない気がする、自分だけ避難して戻ってきたという自責的な気分になって溶け込めない、という話も聞きました。(2014年8月)
避難したことに対する「後ろめたさ」は、多くの避難者、そして避難経験者から語られました。後ろめたさのために、自分の行為をより正当化しようとして、避難元を否定してしまうということも起きてしまったようでした。そこで感情的なやり取りとなり、多くのしこりを残してしまうこともありました。
私は福島に残って子育てをしていることで、(避難した知人から)心無い、過剰な心配をされたこともあって、それによって傷ついたりしているのですが、自主避難の方も自責の念に駆られているという話を伺って、どちらの立場も苦しい思いをしている、どちらの決断をしても釈然としないと思いました。(2014年8月)
戻ってきても、自分だけが避難していたという後ろめたさが拭えず、また、避難先で情報が少なかったせいで、避難中に大きく変化してしまった帰還先の状況についていけなくて、不安と戸惑いを覚えて孤立してしまうこともありました。
母子避難をしていて、最近戻ってきた方が、「水道水大丈夫なの」「野菜はどうなの」と尋ねてきます。ママ友や先生に気軽に尋ねられるのであればいいのだけれど、聞けないで、腹の中を割って喋られる人を見つけてようやく尋ねる、という状況のようでした。(2015年5月)
こうした避難先から戻ってきた人たちを支える、ママカフェや集いの場も作る動きもありました。そうしたところで、境遇を理解しあい、心を許せる仲間を見つけて話すことによって、少しずつ帰還先の暮らしに馴染んで行ったことなどもダイアログでは聞くことができました。
自主避難した人と残った人の間には、しばしば、その選択を巡って感情的な軋轢がおきましたが、そのことをこんな風に言い表した人もいます。
福島県内に残った人たちも、たとえば、当時であれば健康リスクを心配したり、あるいは、不便な仮設住宅での暮らしを強いられたりしながら、色々考えてそこに残る選択をしている。一方で、避難した人たちは、それまでの一切の社会資本を投げ打って避難生活を送るのと引き換えに、健康リスクを回避した。どっちかが選べるのだけれど、どっちも満足度が高くない。嬉しくない。どっちを選んでも苦しい選択肢から選ばなくちゃいけないということを感じます。(2013年11月)
そもそもで言えば、原発事故さえ起きなければ、避難するか、残って住み続けるかなんて考える必要はありませんでした。望んだわけではない選択を迫られ、そして、どちらを選んだとしても、一点の曇りもなく喜べる選択であったわけではないのです。避難すればしたでこれまでの生活を捨てざるを得ず、残れば残ったで、生活は事故の影響を受けたものとならざるを得ません。
そういった中で専門家ができるのは、新しい選択肢の提案なんだと思います。意志決定するための提案。不安を感じて選択した人には、それはそれで正しいこと選択だという提案、避難をしたことに対してもどちらが正しいというのではなく、どちらも正しいと後押ししてあげるようなことがあれば、その後の人生の満足度は違ってくるのではないでしょうか。(2013年11月)
避難するかしないか、戻るか戻らないかという選択は、生活の拠点や自分や家族の人生をかけた重大な選択でした。それを、それぞれにとって満足できるものにすることができるかどうかは、その後の人生を左右する重大なものでした。
複数の選択肢を用意しておかないと、必ず切り捨てられる人が出てしまう。帰る、帰らないも含めて、選択肢は複数ないと追い詰められる人が出てしまう。(2013年11月)
大人でさえ大変な状態でしたが、そうした状況に置かれた子供達は、どうだったのでしょうか。避難先から戻ったある保護者はこんな風に言いました。
子供たちというのは、私が考えている以上にたくさんのことを知り、たくさんのことを思って、たくさんの判断をしているなと感じています。ただし、それが言葉としては、表面には出てきません。今、福島の子供達の、それから避難されている子供たちの心の奥底には、潜んでいるものがたくさんあるんだろうと思います。(2014年8月)
ややもすれば、大人の問題としてばかり語られてしまう事故後の対応ですが、そこで子供達もしっかりと自分に起きたことを見て、経験して、感じていたと思います。それをうまく言葉で表現されることは少なかったかもしれませんが、心の中にたくさんの思いをひそめて、日々を送っていたことでしょう。
言葉で表現することができるようになった高校生世代の子供については、こんな意見もありました。
教える立場ではあるけれど、この原発事故は、大人も皆、初めての事態だったんです。そうなると、「どうしよう?」という状態は同じなんです。大人はわかるけれど、子供はわからない、というモデルが成立していない。こちらから偉そうに教えてやるなんて立場ではなく、いくつかの物の見方だけ教えれば、子供達も自分で考えていくことができるんじゃないでしょうか。問題を共有して、「わからないから一緒に考えよう」、そういう事態なのかもしれません。(2012年11月)
大人もわからないんだ、一緒に考えよう。そんな風に言えた例は多くはないのかもしれません。でも、そうできたなら、そうするだけの余裕を大人が持てていたなら、子供達もまた、自分の人生をもっと主人公らしく過ごすことができたかもしれません。
ダイアログには、研究者や教育関係者が多く参加していたこともあって、ときおり、原発事故を奇貨として、福島県内の理科教育、科学教育を充実させていくことも提案されました。原発事故はとても不幸な経験ではあったけれど、多くの人たちが支援活動にきてくれて、人と人の助け合い、つながりを経験できている。それは子供にとっても貴重なことだ、との声も聞かれました。
福島の子供達は貴重な体験をしているのかもしれません。放射線のこと、エネルギーのこと、人とのつながりを実感として知っている子供達が、これから日本や世界のことを考えてくれれば、福島は素晴らしくなる。(2012年11月)
ところが、この提案の受け取り方は、立場によって大きく異なりました。ラウンドでの発言を会場の後ろで聞いていた避難区域の住民の一人が、この発言の後に、挙手して発言を求めました。
強制避難をしている私たちからすると、「貴重な体験」なんて生易しいものではないと思います。一人一人の生活が壊され、人生が壊された。この先どうやって生きていくのかもわからない。そんな中で死んでいく人たちもいる。将来や夢を語れる地域はあるとは思うけれど、私たちはそんなところには全然到達できていない。(2012年11月)
これとは別のダイアログの2014年にも、まったく同じようなやり取りがありました。これを機会に福島での理科教育を充実させれば、世界的な科学者がたくさん生まれるかもしれない、そんな発言に対して、避難区域からの参加者が、理科の勉強なんて冗談じゃない、こんな辛い思いをしなくてはならなかったのに、こんな経験に基づいた勉強なんてしたいはずがないじゃないですか、と反論をしました。
原発事故という望まない出来事を、一つの経験としてプラスに考えていくには、そう考えられるだけの余裕も時間も必要だ、ということかもしれません。そして、その余裕と時間を持てるかどうかは、置かれた立場や状況によって大きく違いましたし、また個人差もありました。確かに、まだ辛い思いをしているのに、この経験を生かして明るくポジティブに、なんて言われたら、とても耐えられないと思います。一方、落ち着いて考えられる状況になってきたならば、後ろばかり向いても仕方ない、何か前向きになれるようにしたい、と考えるのも自然とも言えます。同じ福島県内にいても、強制避難となった地域とそうでない地域とでは、問題となっていることも、感じ方も大きな違いがありました。
将来に向けて何ができるのか、というテーマで議論をしていたときのことでした。避難指示が解除される前の、避難区域の住民の方の言葉です。
人が寝泊まりして住んでいられるところと、全く人が寝泊まりできず住んでいられないところというのは、見ていただくとわかると思うんですが、町の光景がまったく違います。そこで、何ができるのか、と言われると、私たちも手探り状態です。問題は、人が住んでいるかいないか、そこなのかもしれないと思います。(2014年5月)
私の住んでいた家は、新築4年で避難になりました。家の中にあるものすべてゴミと化しました。だから、何をビジョンにするかと聞かれても、頭の整理がつかないです。(2014年5月)
目の前に対処すべき現実生活があれば、少し時間はかかるかもしれませんが、自分なりにできることを見つけることはできるのかもしれません。でも、人の住んでいない場所では、いったい何をどうすべきなのか、どうすればいいのか、イメージをすることさえ難しくなってしまいます。ましてや、元住んでいた家が住めなくなってしまって、建て直しということになれば、さらに想像はつかなくなってしまうでしょう。避難指示から時間が経てばたつほど、もともとあった生活から状況は変わって行きます。家屋は傷み、インフラは損壊し、田畑は荒れ、子供達は成長し、大人たちは年を取ります。傷んだ建物を取り壊し、新しく作り変えれば、前とはまったく異なる景色になります。避難指示が解除になったとしても、もとの暮らしとは違ったものになるでしょう。かつて住んでいた場所であったとは言え、自分が暮らしたことのない状況での新しい生活をイメージすることは、誰であっても簡単なことではありませんでした。
もうひとつ、原発事故の後のさらなる分断をもたらしたのは、行政による対応を挙げられるかもしれません。原発事故が起きるまでは、多くの人にとっては、行政は、存在することを知っていたとしても、何か用事がなければ、その存在を取り立てて意識することがないような存在だと思います。社会インフラの一部となっているので、トラブルなく機能していれば、そこにあって当たり前で、そのことについて何か感じたりすることはありません。ところが、原発事故のあとは、住民対応の前線に行政が立つことになりました。その対応のひとつひとつに、住民にしてみればそれぞれの生活や人生がかかっているように感じられる、重大な業務を行政が担うことになったのです。とりわけ、避難区域の指定・解除や、除染といった業務では、住民との衝突が起きることになりました。
住民の側としても、一方的にクレームをつけていたわけではありません。自分の生活や安全に密接に関わることだからもっと状況を知りたい、そう思うのは当然だろうと思います。
色々やっていただいて感謝しているところもあるのですが、もうちょっと住民に寄り添って意見を聞いていただけたらよかったなと思うところもあります。PTAも話し合いたいと申し込んだのですが、市から連絡の入った区長さん以外はお断りされてしまったこともあります。私たちの声が届かなかったという無念さはあります。(2013年3月)
特定避難勧奨地点の指定の説明の席に参加させてもらうように申し込みをしたが、断られてしまった、という方の声です。多くの場合、住民から行政への不満で言われることは同じでした。自分に関わることであるのに、自分たちの意見を全く聞いてもらえない、そして、行政が一方的に決めてしまうことに対してでした。
とりわけ、全域避難となった地域での除染事業に対する不信は、とても強いものがありました。
事故が起きてから2年間、ずっと懇談会という名の一方的な説明会ばかりでした。それも最初に決まっていることの一方的な説明。(2013年7月)
住民の声を聞くというのがあまりになさすぎるのではないでしょうか。(2013年7月)
毎回、説明会に国から来る人が違うんです。しかも、その前の回に提出した質問に対する回答、宿題もしないまま来るんです。それで本当に問題解決したいと国は思っているんだろうか、と思います。(2013年7月)
ダイアログに参加していた、直接の担当者ではない行政の関係者からの意見もありました。
除染というのは、除染工事ですが、発注者は行政になるんです。これは、税金で賄われることになります。どうしても税金で行われることは、公金を支出するということで、一定の基準、規則に則ってやっていくことになります。それを考えると、あまり自由にできないところはあります。(2013年7月)
つまり、除染は公共工事という扱いになるので、住民の土地である私有地で作業するのだけれども、発注者は自治体や省庁などの行政ということになります。ですから、住民の要望に沿うといっても、受注している工事業者は、発注者である行政の指示に従いますし、行政としては、公金を用いる作業である以上、共通のルールのもとで運用していく必要があるので、個別の要望には応じにくい、ということでした。
この理屈は、行政がもっとも適当なやり方を知っている場合には成立するかもしれませんが、原発事故のあとは、しばしばそうではありませんでした。なぜならば、行政にとってもあらゆることが初めての経験で、除染もまたそうだったからです。時には、民間側の実証実験の方が先行して実績を上げ、行政のマニュアルやガイドラインよりも効果的なやり方を見つけることもありました。ところが、マニュアルが変えられることはほぼありませんでした。別に無理難題を言っているわけではありません。こうやった方が効率的だし、いい結果になることがわかっているから、そういう提案もなかなか受け入れられませんでしたし、仮に受け入れられたとしてもそのときは変化があるときには、工事はもうとっくに進んでしまっていました。
これは、組織、制度の問題との指摘もなされました。
行政組織では、やっぱりこういう事態に対応できないんだなと思いました。縦割りですよね。除染に関しては、環境省がやります。生活実態を考えてみれば、農地と合わせて生活をしていくための場所の除染をしなければ、農村部では生活圏が成り立たない。ところが、道路は国交省、農地は農水省、河川は運輸省、一体となって取り組まないといけないのに、それぞれがバラバラの縦割りでなければ国は動けない。(2013年7月)
省庁ごとの縦割りだけではありません。縦割りは、県にもありましたし、自治体にもありました。自治体、県、省庁、それぞれに縦割りがあり、おまけに、自治体、県、省庁でそれぞれに縄張りもあります。それらのすべてに振り回されることになる住民は、どれだけフラストレーションが貯まる状態になるかは想像してみてください。たったひとつのささやかな要望、避難区域で草刈りをした草を処分したい、それだけのことが、あらゆる窓口をたらい回しされた挙句に、数年がかりで放置される、なんてことは、原発事故後にはありふれたことでした。
行政の限界は、行政側の人でも認識している人もいました。
行政というのは、個別に事情が違う場合の対応は、非常に小回りが利かないところがあります。きめ細かい対応は非常にしにくい立場になります。私どもも双方向で信頼を構築して、というのは色々工夫をしながらやっていますが、共通の理解を得るのはなかなか難しいと感じています。(2014年5月)
行政の人が、「うまくできていない」と個人的に認識したとしても、制度や組織の複雑に入り組んだ既存のルールの中で、簡単には変えられないのが現実でした。もちろん、全部が全部ダメだったわけではなく、自治体の担当者レベルでは、意思疎通がうまくできたこともありました。
最初は、自分たちも「役所が測定しろよ」という対応をしていたんですが、ある時に、「やらないんでしょうか?」と提案したら、対応の窓口の役所の人は「じゃあ、僕たちもがんばりますから、一緒にやりましょう」と言ってくれたことがありました。(2013年11月)
けれど、こうした関係構築も多くは担当者レベルの一時的な動きにとどまり、2~3年ごとの人事異動で担当者が担当部署からいなくなれば、それまで培ってきた信頼関係や動きも元の木阿弥になるということは、日常の光景でした。行政と住民の間に、「僕たちもがんばりますから、一緒にやりましょう」という関係が生まれ、そこから地域の課題を解決していく動きにしていくためには、どうすればよかったのでしょうか。もしそれさえできれば、事故後の分断はもっと少なくて済んだかもしれません。
(教訓を)法律に埋め込めば、人びとが忘れたとしても、その教訓が社会の中に埋め込まれていきます。でも、それをしない限り、個人個人の努力にとどまってしまいます。社会インフラの中にどう埋め込んでいくか、それがよりよい社会、より強い社会へとつながっていくのだと思います。(2012年11月)
風化というと、たんに記憶にとどめることだけを考えがちですが、忘却は人間の常です。忘れてはならないことは、制度として、法律や社会の中に埋め込んでいく。そうすれば、人が忘れたとしても、社会の中の機能としてとどまり続けることができます。結局、どれだけ制度の中に埋め込むことができたのかはわかりません。けれど、ダイアログのなかで早くからこうした議論がなされていたことは記録にとどめたいと思います。
そして、行政制度のもたらしたもうひとつの大きな分断には「賠償」があります。賠償は、もらえる人ともらえない人の間に、拭いがたい亀裂をもたらしました。そのことは、ダイアログでも詳しく語られることはあまりありませんでしたが、お金が深刻な亀裂をもたらし、ときには家族間の間でさえ難しくしてしまったことは繰り返し触れられました。お金は、心のどこかにわだかまりを残し、人と人の関係を難しくし、その影響は長期に渡ります。もっと人と人との関係を壊さないですむ賠償制度はできなかったのか。これも原発事故の残した大きな課題のひとつではないでしょうか。