文章:安東量子
ここまでは、主に福島県内に起きた分断について書いてきました。原発事故の後には、福島県内外の間にも大きな亀裂が走ることになりました。ダイアログでは、県外からの参加者もあり、福島県内外の格差についても頻繁に語られました。福島県内外という地域での違いが話題になるというのも、よくよく考えるとおかしな話かもしれません。なぜなら、福島第一原発から出た放射能は、福島県だけを選んで降下してきたわけではないからです。けれど、県境を境として、行政のとる対策には大きな違いが出ました。
福島県の北側、県境を接した宮城県の丸森町でも、事故後の放射線量は上昇しました。しかし、宮城県はほとんどの地域では影響が少なかったせいもあり、対策はなかなか取られませんでした。福島県内では、放射線量を測るためのさまざまな測定器械が配置されるのに、行政上の境界によって宮城県での対応はまったく異なりました。また、県内の大部分では、放射能の影響はあまりなかったこともあり、被害そのものが県内で認知されにくい状況を産んでしまいました。
宮城県では、こういう放射能に対しての避難する、避難しないという話自体が表に出しづらいという現状があります。なんで宮城県から避難するの? 原発事故は福島の問題でしょう? なんで宮城県の人が避難するの? という思いを抱いている宮城の人がいることをわかっていただきたいと思います。(2013年3月)
自治体の一部だけが異なる被害を受けた場合、行政はほとんどの場合、対象人数が多い方へ対応を合わせます。行政は「平等性」重視の姿勢から、人数が多い方へ重心を置いて画一的な対応を取る傾向が高いのです。そのため、人数が少ない方の被害が大きい場合も、概して対応は鈍くなりがちでした。そうした地域では、行政の対応を待ちきれなかった住民やボランティアが動き、自主的な測定や対策が行われていくこともありました。行政が被害を公に認めようとせず、被害が認知されないとき、問題になるのはその姿勢が地域内での問題の語りにくさを呼び起こすということでした。
放射能に関して、オープンに話すことができる状態になっていない、ということです。モニタリングひとつをとっても、それをすることで子供を不安にするのではないか、大騒ぎをするな、騒ぐことによって風評被害を呼ぶのではないか、という傾向が強く、対策が取りづらい状況になっています。(2012年11月)
行政の対応の鈍さを呼んだ原因のひとつには、「風評被害」への恐れがありました。地域の大部分は問題ないのに、放射能の対応を取ると、放射能の影響が存在することを公に認めてしまうことになる。そうなると、その地域は「危険」だと言って住民も騒ぎ始めるし、また、外からも危険地域だと思われて、風評被害が起きてしまうかもしれない。そうした懸念から、対応そのものに対してしばしば及び腰となることがありました。そのことに対して、表向きは、自治体内の住民を「平等」に扱うという理由付けがなされることもありましたが、被害が大きい地域の住民にしてみれば、平等とは正反対の強い不公平感を抱くという結果を呼びました。
「風評被害」は、事故後すぐの時期から問題となっていました。事故直後に福島県内から避難した人が、避難先で福島から来たというだけで嫌がらせを受けたという話や、県外の人との結婚が破談になったという話は、たいていの人は耳にしていました。いくつか全国的にも大きな波紋を広げた出来事もありました。2011年8月には、京都の伝統的お祭りである「五山送り火」で焚かれる薪から放射能が検出されたとして、使用が中止されるという騒ぎがありました。この薪は、東日本大震災の被災地を応援するためという理由で、福島県ではなく、岩手県の陸前高田市から取り寄せたものでした。同じ2011年の9月には、愛知県の花火大会で、福島県内の花火業者が製作した花火が「放射能の恐れがある」との住民からのクレームにより、打ち上げが中止されるという事態も起こりました。また、福島県を除く東北の津波被災地の瓦礫焼却処分を、被災地外で受け入れることを拒む動きも全国的に広がっていました。東日本大震災の被災地であり、原発事故の被災地でもあるのに、さらにそのことによって冷たい扱いまでされてしまったこれらの出来事は、福島県内に住む人たちに大きな衝撃を与えました。ダイアログでも、繰り返し差別への懸念は語られました。
自分の子供を含めて、福島の子供達がいわれのない差別を受けない社会の実現に向けた教育をやっていただきたいと思います。差別というのが、保護者としては一番心配な部分です。福島県のみならず、県外すべて全国的に放射線教育をやっていただかないと差別はなくならないんじゃないかなと思います。(2012年11月)
こうした話題になるときに、必ず指摘されたのが、首都圏や福島県外との情報格差の問題でした。放射能、放射線というのは、事故前には義務教育の理科のなかでは扱われない内容であったこともあり、基礎的なことをほとんどの日本人が知りませんでした。(事故後には教えられるようになりました。)
東京の人が0.06マイクロシーベルト毎時と言う、(平常時と変わらない)東京の(自然)放射線量を聞いて、「健康に大丈夫なのだろうか」と言ったと言う話を聞いてびっくりしました。(2012年11月)
福島県内では、原発事故のあと講演会などが多く行われ、そうした場に出かけて自主的に勉強した人も少なからずいたこと、また、ニュースや新聞、行政の広報、日常会話、あらゆる場面で日常的に放射線に関する話題は流れていましたので、当然のこととして、県外の人たちに比べれば、放射線についての情報にも詳しくなっていました。ところが、相対的にそうした情報に触れる機会が少ない県外の地域では、よほど意識的に情報を取り込んでいなければ、テレビや新聞、雑誌から流れてくる、ややもすればセンセーショナルな情報を受け身で消費していくだけになりがちでした。
首都圏教育の必要性を感じます。今、首都圏はどんどんオリンピックへ関心が流れているので、(福島や放射能に関する)噂が流れたかと思うとパッと他へ関心が動いてしまいます。けれど、世論を作るのもやっぱり首都圏です。福島の方達が努力しながらやって来ていることがどれだけシェアできているか。首都圏の人たちの放射線についての知識をなんとか福島と同じレベルに上げて行くことを長い目でやっていただけたらと思います。(2014年8月)
首都圏を中心とする県外では、福島や放射線についての情報は、ほかの新しい刺激的な話題にあっというまに取って代わられ、記憶に残るのは、事故当初のセンセーショナルな情報ばかりだったのではないでしょうか。落ち着いたトーンの報道は記憶に残らず、感情を揺さぶる情報ばかりが記憶に残り続けるのは、原発事故に限らず、多くの場面で共通する事でしょう。
首都圏と地方の情報発信格差の問題もありました。日本で、情報の発信拠点となるのは、首都圏にある在京メディアでした。加えて、日本の人口の3割弱は首都圏に暮らしています。自然、メディアは首都圏の情報消費者に好まれる情報を選んで発信します。ダイアログの参加者の地元メディア関係者からは、福島の地元目線の報道は興味を持たれることはほとんどなく、東京の系列局からはもっと「絵になる」、放射能の恐怖にに怯える県民の姿をニュースとして提供するように求められることがあった、との話もありました。そうしたことも影響して、県外から福島へ足を運ぶことを躊躇う風潮は、事故から3年を経ても続いていました。
大手企業の方が転勤で福島に行くことになると悩むのだそうです。特に小さなお子さんがいる家庭はなんで福島に行くんだ、と。(2014年8月)
なぜ、こんな事態が生じてしまうのでしょうか。放射線への理解が足りないからかもしれない。そう多くの人が感じる中、早い時期から、放射線教育の重要性を訴える声がダイアログでは聞かれました。それも、福島県内だけでなく、福島県外でも行わなければ意味がない、と多くの人が感じていました。
結局、福島の問題だけではなく、全国的に一定水準の放射線に対する知識なりを持っていないと、差別なり風評被害なりは生まれてしまうんだろうと思います。(2012年11月)
多くの人はそれに賛同しましたが、原発事故の後に放射線について学校で教えることには、特殊な難しさがありました。東京から参加した教員の言葉です。
教員の中から、放射線の授業をしたら保護者から批判されるのではないかと心配する声があります。この話題になると、原発推進派か反対派どちらなのかと尋ねられることがあるのです。(2012年11月)
事故のあと、全国的に原発を容認するか反対するかで、世論は大きく分かれました。事故の衝撃が大きかったせいもあり、相反する意見の衝突はしばしば感情的になり、落ち着いて話をする状況ではありませんでした。原発事故のみならず、放射線について話すときには、まず容認、反対の「どちら側」なのか、それを確認すると言った雰囲気があふれていました。この風潮は、東京だけではなく、福島を含めた日本全体がそうであったろうと思います。
最初に態度表明を求められ、自分と違う意見であったならば、「敵」として非難されるような風潮では、日常のなかでその話題を取り上げるのがとても難しくなります。そして、結果として、原発についても放射能についても、語りにくい雰囲気のままになり、風評もしつこく続くこととなりました。
この風評はいつまで続くのかな、と。(2014年5月)
風評と呼ばれる被害が、全国的に大きな問題として取り上げられることになったのは、福島からの避難した生徒に対する2016年のいじめ被害報道がきっかけでしたが、福島県内では事故直後からずっと問題になっていたのでした。
ところで、こうした原子力災害の被災地に対するネガティブ・イメージが被災地を苦しめる問題が起きたのは、福島が初めてではありません。チェルノブイリ後の被災地でも同じことが起きていました。2012年2月の第2回ダイアログに参加したベラルーシ情報局のゾイヤ・トラフィムチクさんの発表でも、その対応に苦慮していることが語られていました。その当時のベラルーシでは、「地域情報センター」が設立され、若者への教育と事故の記憶の伝承と同時に、被災地のネガティブ・イメージをいかにポジティブ・イメージに変えて行くかに力を入れていると説明されました。(第2回ダイアログセミナー)
事故後、大混乱に陥ったベラルーシも、2000年代に入ると状況は落ち着きだし、食料品の放射能のコントロールや品質管理も手法が確立し、日々の手続きとしてきちんと行われるようになっていました。しかし、ベラルーシ国内でも原発直近の被災地には、ネガティブなイメージがついてしまい、農産物などの価格も国内では下がったままであるということでした。
ジャック・ロシャールさんも、チェルノブイリ事故の被災地支援で経験した出来事を語りました。
ジャック・ロシャールさん:1990年代のウクライナでのことです。鉄道に乗って、チェルノブイリの被災地でのプロジェクトに首都キエフから向かう途中でした。個室型のコンパートメントタイプの座席に仲間と通訳と一緒に座り、私は、フランス語で被災地の放射線についての非常に技術的な会話を仲間と熱心にしていました。たまたま相席となったウクライナ人の若い男性が、私たちの会話を興味深そうに眺めていました。男性は、何を話しているのか、時折通訳に尋ねて確認していました。
私たちの会話が一区切りついたのを見て、彼は、通訳を通じていくつか質問をしていいか、と話しかけてきました。同じ国内にいても、原子力被災地をまったく訪れたことがないという彼は、興味津々の様子で、被災地の状況を私たちに尋ねて来ました。そして、ひととおり尋ねたいことを尋ねた後、彼はボソリ、ひとりごとのように何かをウクライナ語で言いました。
通訳に確認すると、彼は、自分はチェルノブイリ事故の被災地の女性とは結婚したくないな、と言っていたのでした。私は、その言葉を聞いてとても驚きました。というのは、原子力災害によって、そのような状況が生み出されるとは、それまで想像もしていなかったからです。やがて、ベラルーシの被災地に足繁く通うようになると、そうした話は非常にありふれたものだと知ることになりました。原子力災害は、このように人間関係に大きな亀裂をもたらす作用があるのだと思います。(2012年3月)
チェルノブイリ事故のあとでも、同様のことが問題となっていたのでした。けれど、差別、風評といった問題は、チェルノブイリが初めてだったわけでもありません。ロシャールさんの話のすぐ後に、伊達市の仁志田市長(当時)がマイクを手に取りました。
仁志田市長:事故が起きてすぐの頃にあった福島県内のとあるセミナーで、西日本出身だという70才過ぎの人がフロアから意見を言ったことがありました。
「これから福島の人は気の毒だ。広島の原爆の被害者に対する差別意識が西日本ではかつてありました。広島長崎の被爆者の子供、特に娘さんとは、結婚しないと言われていたことがあったのを私は知っています。福島の人はこれからかわいそうだ。」
私は、それを聞いたときにとても驚きました。まわりの人も「そんなことはないだろう」と言っていました。けれど、その後に福島県の花火が避けられるだとか、そう言う動きが現実に起きてしまった。つまり、これは今にはじまったことではなく、そう言う事実がすでに日本にはあったと言うことです。東北の人間が知らなかっただけなんです。そして、さらにいえば、これは、原爆被害者だけの問題でもない。もともと日本には差別があるんです。穢れを嫌うと言う差別が。その現実を認めていかなくてはいけない。それを含めて放射能対策は考えていかなくてはいけない。放射能問題の根底には、日本社会の差別意識の払拭と言うところにあるのではないかと思います。(2012年7月)
差別の問題も、風評の問題も、福島だけで起きたのではありません。先に出てきた「構造的脆弱性」と同じように、もともと日本社会にあった問題です。そして、それは日本だけではなく、チェルノブイリ事故後の被災地でも起きたことでした。異質なものを排除し、より弱い立場の人に負担を押し付けてなかったことにしたい、人間の中には、残念ながらそうしたことを好む性向があって、それが原子力災害をきっかけとして、増幅して噴出したのだとも言えるのかもしれません。
精神科のお医者さんからはこんな指摘もありました。
福島の方も差別されてとても傷つかれたと思いますが、精神科の患者になるとずっと差別されることはどう思われるでしょうか。震災前から、日本だけではなく世界的にですが、精神科の患者を排除して切り捨てるようなところがありました。社会全体で、どこまで排除したいのか、受け入れるのか、そう言うところが問われている気がします。(2014年4月)
福島だけ、放射能だけの問題として考えるのではなく、社会全体として、より弱い立場にある人たちを切り捨て、排除していく動きをどうしていきたいのか。本当に問われているのは、そこなのかもしれません。
いずれにしても、福島に育つ子供たちへの思いはひとつでした。
福島で育った子供たちが将来、福島で育ったことがマイナスにならないように。(2014年8月)
それはつまり、子供たちを守るというだけではなく、子供たちが大人になったときに、自分で生きていけるだけの強さを持てるように力を授ける、ということでもありました。心ない言葉を言われたときに、深く自尊心を傷つけるのは、その言葉そのものだけではありません。言葉も確かに傷つけはしますが、さらに深く自尊心を傷つけるのは、その心ない言葉に同意できないにもかかわらず、自分の言葉で反論できない、言い返せないときではないでしょうか。たとえ、心ない言葉を投げかけられたとしても、自分にしっかりとした自信を持ち、言い返すことのできる知恵と言葉があれば、傷から回復することができるかもしれません。
将来のことを考えると、「あなたたちが福島から出ていった時に、福島のことをきちんと説明できなければならないだろう」とは言っています。(2012年11月)
子供達は中学校、高校生になっていずれ家を出て行くときが来ます。その時に、福島出身ということでもしかすると差別されるだろうということは、母親として覚悟しています。そういう一部の人たちは存在しますから。でも、その時に正しく知識を持って、一部の心ない人たちの言葉に、わかりやすく説明できる子供達に成長していけばいいなという風に思っています。(2014年8月)
知識、知恵、言葉は、時として、自分を守るための力になります。ダイアログでは繰り返し語られた話題ですが、果たして、いま、私たちは子供たちに身を守るためのしっかりとした力を手渡せているのか、振り返ってみてもいいのかもしれません。
差別や風評にどう立ち向かうかという話題の中で、地元の人からは、問題は風評だけではないという指摘もされたりもしました。福島に来たがらない人が多い、という話題になったときのことです。
風評被害もありますが、もう一つには、福島に住んでみたいと思わせる魅力がない。(2014年8月)
厳しいようですが、これは風評被害の対応の話題でも同じことが指摘されていました。安全であることは当然のこととして、風評を乗り越えるには、福島の食べ物のよさを向上させていくことがなによりの手立てなのではないか。そうした議論も行われました。
食品は安全であることはもちろんですが、なにより、皆さんに美味しいと思ってもらわなくてはいけないと思います。(2014年5月)
そして、そんななか福島を訪れてくれた人たちには楽しんでもらって、地域の魅力を経験してもらうことも重要でした。
東京の大学生が福島に行ってみたいと言う子がいて、でもご両親は反対でした。それでもその子はぜひ福島に行きたいと言うので、親御さんに福島の状況を説明して、放射線量の説明もしたのですが、最終的にやはりご両親の反対でこられませんでした。3年半経っても難しいところがまだまだあります。でも、リピーターのように来てくれる子もいますので、先は長いですが、面白かったよ、楽しかったよ、と言うのを広めて行ってもらうところから地道にやっていけたらと思います。(2014年12月)
感受性が豊かな年若い頃に震災の報道に触れた次の世代のなかには、上の世代とは違って、まっすぐに被災地に関心をもってくれている人たちがいることも伝えられました。
関西の学生さんが、すごく興味を持ってくれるんです。(2014年5月)
いま現在でも、福島県外から修学旅行や課外学習として被災地を訪れてくれる若い世代は多いと聞いています。同時代のなかでは、たくさんの分断を生んでしまった原発事故ですが、分断を次の世代に引き継がないように、また、年を重ねていく世代と震災の記憶があまりない世代との記憶の分断を生まないように、次世代なにを伝えられるのか、伝えたいのか、震災の時に成人していた大人たちがしっかりと向き合って考えなくてはいけないことではないでしょうか。そして、それを考えることは、日本社会がもともと抱いていた問題についても再考することになるのかもしれません。
もともと日本社会が震災前から持っていた政治や経済といった社会のシステムの中に潜在的にあった問題が、出て来たと言う印象を持っています。だから、これは福島だけの問題ではなく、日本全体の問題で、それとの戦い方は、多分誰も経験がないのだと思います。(2015年9月)
ここまで、原発事故のあとに顕在化した分断について、ダイアログで語られた言葉から記してきました。ところで、その分断は、現在はどうなっているのでしょうか。時間の経過とともに消えてしまったのでしょうか。ダイアログのなかに、興味深い指摘がありました。
震災から時間が経過して、状況がわかれてきていると感じます。震災が起きたときは、「よーいドン」じゃないけれど、一斉にスタートしたんですよね。みな同じ状況からはじまった。けれど、時間が経つにつれ、それぞれ避難先であったり避難元であったり、それぞれの状況が固定化してきて、距離感が大きくなってきて、問題意識もバラバラになってきているのを感じます。そこで新しい意思疎通のできなさも生まれてきていて、バラバラの状況の中でつなぎ直そうとしないと、またさらにバラバラになるんじゃないかなという不安を最近感じています。(2013年11月)
もしかすると、分断は新たに生まれこそすれ、解消していないのかもしれない、最近はそんな風に感じることが増えました。大事件が起きて、新しく「課題」が発生したときには、社会に摩擦や軋轢が起きるため、多くの人の生活に影響を与えますし、目にもつきます。だからこそ、対応しなくてはならない「問題」として認識されます。しかし、その状況が固定化して、日常の風景となってしまえば、今度は一転して、その存在を当たり前として、気にしないで過ごすことができるようになります。
いま、改めてダイアログの記録を振り返ったときに、語られてきた分断の多くは解消はしていないことに気付かされます。ただ、多くの人は、もうそれはそういうものだ、とあきらめて、日常に溶け込ませ、問題視しないことにしているだけなのではないでしょうか。
一方、当時ほど劇的ではないにせよ、いまも状況は変化しています。それにあわせて、新たな分断も生まれているように見えます。それは、事故直後のような大規模なものではないため、大きく目にはついてはいませんが、どことなく日々の暮らしの中の息苦しさ、意思疎通のしづらさにつながっているように感じるのです。
震災から10年を迎えるなかで、もう一度、分断に向き合ってみることも必要なのかもしれません。