文章:安東量子
2011年の震災時、原発事故の影響によって10回の避難を繰り返した後藤さん。2015年行なわれたダイアログでは避難から今までの経験をお話いただきました。あれから6年、2021年2月にインタビューを行い、2015年のお話から、気持ちや状況に変化はあったか、お話しを伺いました。
INTERVIEW:後藤素子さん
後藤素子さんは、南相馬市小高区の沿岸にある福浦地区にお住まいでした。2011年の津波で、福浦地区も大きな被害を受けました。その後、警戒区域に指定されて、後藤さんはお子さんと一緒に新潟へと避難されました。2015年9月のダイアログには、避難先の新潟から参加してくださいました。その後、2018年の南相馬で開いたダイアログにもご参加いただきました。時間が経過して、いま、どのようにしていらっしゃるのか、インタビューでお伺いしました。
2015年と比べて現在の状況に変化はありますか?
後藤さん:特にありません。あの頃と同じです。
当時のご自分の発表やご意見をご覧になって、いまは違うなと思うことはありますか?
後藤さん:それも特に違いはありませんね。こんなこと言っていたんだ、と思いながら読んだ箇所もありますが、思っていることも変化はありません。
今は小高に戻られる頻度はどうですか?
後藤さん:コロナが広がってからは戻っていないです。その前から、地域の、役職は任期が満了になりましたし、小高の小学校4校が合同で学習するようになってからも継続して評議員をさせていただいていましたが、統合の方向性が示される頃にはその評議員の役割は終了しました。、思い返せばその頃から戻る機会は減ってきたような気がします。
発表の時に新潟から往復7時間かけて小高に戻られている、しかも月に何度かというかなりの頻度で戻られていると伺って驚いたのですが、その時の思いはどんなものだったのでしょうか?
後藤さん:今思い返すと、私もすごくがんばっていたな、と思います。震災前のかかわりを継続したい、それに近い形を保ちたいという思いがありました。それが当時の立場でできることと思っていたからです。片道230キロくらい、往復7時間かけて戻って滞在時間1時間半、ということもよくありました。しかし、たいていは市役所に訪問し市長や教育長にも面会させていただき地域から散り散りに避難している子どもたちやその家族の様子などを報告したり、避難区域から同じ南相馬内に避難して4校が合同で学習している学校の行事に地域の方々と一緒に協力したことを報告したりしました。長距離の移動ですから疲労困憊することもありましたが、それでも継続したのは年月が経過するとともに避難区域から避難した子どもたちや家族が置き去りにされていくことを危惧したからです。
もともとあった地域のつながりは、今はいかがですか?
後藤さん:我が家も含め津波で流された、家屋を当時PTA会長をしていた小学校の児童の実態で見ると半数の児童の家が津波被害に遭いました。そのような状況から避難元に戻って生活をする方は少ないのですが、私の両親のお墓があることからもつながりは継続しています。今回の大きな地震では地域の方々と電話などで安否を確認しあったほどです。その時にも隣の区に家は再建しても月に一度は元々の地域の方との集いを楽しんでいるとも聞きました。私も一昨年の暮れに、土湯温泉で合流し地元の数人で再会の機会をつくりました。震災前には110軒ほどあった小さなコミュニティの中で地元に戻った方は20軒ほどだと聞いています。ほとんどの方が避難していることもあって、避難先にいても区別されていないと感じています。
お子さんにとっての故郷というのは、新潟なんでしょうか?
後藤さん:年齢によりますね。一番上は震災の時に中学三年生だったので、被災地への思いというのは強いようです。下の子供は、震災前とこちらでの生活が同じ年数になっているので、半々という感じでしょうか。真ん中の子は小学校から中学校の一年生まで過ごしていましたので複雑な思いがあると思います。これは私の想像ですので本心は全く分かりませんが。
そちらでの暮らしで、「被災者」という視線を感じたことはありますか?
後藤さん:新潟の方は、「被災者を助けたい」という思いから、「被災者」という言われ方をすることはありました。10年経っても、「被災者なのによく知っているね」と言われることがあったりして、普通に引越しなどで来たとしたら、そんな風には言われないんじゃないかな、と感じることはあります。そこは違和感を感じるところです。その反面、私が被災者ということを今まで知らなかったという方も結構います。学校と地域をつなぐコーディネーターの仕事をしていますので、地域の役職などをいただくこともあります。
県外に住んでいて、福島県からの疎外感を感じたことはありますか?
後藤さん:それは、あるのはありますね。県外に避難した人が地元にかかわるのが面倒くさいのかな、と感じることがあったり。私は、隣から行っているくらいのつもりでいたのですけれど。もしかすると、県外避難というのではなく、私自身が面倒くさいと思われたのかもしれないですけれど。(笑)
小高の4校の小学校が統合されるにあたり、記念誌制作が進められていますが、そこにかかわれないことには疎外感を感じます。あくまでも私が勝手に感じる感情なのですが。
そちらから見て、福島、故郷への印象はどんな感じでしょうか?
後藤さん:うーん、私もコロナになってからしばらく帰っていないので、SNSやニュースで見るくらいなのですけれど、私は避難前も今も教育に関心を向けていますが、被災地ではいいか悪いかは別として、子どもの教育にすごくお金をかけているな、ということくらいでしょうか。これもイメージですけれど。こちらでも子どもとかかわる仕事をしながら、何が子ども達にとっていいのかな、というのはいつも考えています。子ども達には、ゆるやかな普通の関わり、地域の方と関わりながら心豊かに育ってほしいなという思いがあります。私の子ども達が地元で暮らしていたころの思い出は、そういうゆるやかな関わりです。
あとは、やはりしばらく行っていないので直接は見ていないのですが、Google earthとかで見かける小高の街中も建物が少なくなっていて、寂しいですね。
景観、景色って、故郷の記憶として強いものだと思うのですが、後藤さんから見ていかがですか?
後藤さん:一番は、自分が住んでいた沿岸部がソーラーパネルに埋め尽くされているのを見ると、寂しい気持ちはしますね。仕方ないこととは思いますけれど。沿岸部は、危険区域ということと、塩害で耕作も難しいということで、宮城や岩手の沿岸部と比べても活用できない面積が広いように思えるのは寂しいです。小高は沿岸部に限らず、山手もソーラーパネルでいっぱいになっていて、ダイアログ(*)にも参加されていた小高の水谷さんが「原風景を残したい」ということで、水田を維持されていることには感謝しています。その思いを貫いていただいたことで、今もそこだけは震災前の風景が残っていますから。小高の街中も、本来であれば、あそこに建物を建てて再建ということだったのでしょうけれど、避難区域ということでそれもできませんでした。
*2018年2月小高ダイアログセミナー
http://ethos-fukushima.blogspot.com/2018/03/20182101110-11-february-2018-materials.html
放射能への不安はいかがですか?
後藤さん:今は、沿岸部は特にかなり減ってきていると思っています。ただ、原発からの距離が近いのが心配といえば心配です。
ご自身は、この後、故郷とのかかわりはどんな風に考えられていますか?
後藤さん:家族もいますので、いずれは南相馬には戻ろうとは思っています。タイミングを見ている感じですかね。
(2021年2月 インタビュー:安東量子)
2015年9月第12回ダイアログセミナー 「避難から今まで」
私は、南相馬市から新潟に子どもたちと一緒に今避難中です。私たちが住んでいた地域は原発事故直後に避難指示区域になりました。
まず、震災前の避難元の様子をお話しさせていただきたいと思います。
私の避難元は、南相馬市小高区です。自宅は原発から約11キロ地点、双葉郡浪江町の境界線が数百メートルの所です。そこは、小高区の中でも一番原発に近く、町場から離れた場所という意味の「在(ザイ)」といわれている福浦地区です。福浦地区はほとんどが大家族で、そして持ち家で、安定した生活をしていました。在とはいえ、心豊かに生活できる地域でした。長年の付き合いの中で育まれてきたしっかりとしたコミュニティがあって、いつでもあいさつを交わし合い、周りに見守られながら安心して暮らしていました。
当時、私は、地域の小学校のPTA会長をしていました。地域の皆さんは、PTA主催のお祭りにお手伝いとして参加してくださったり、子どもたちが取り組んでいる畑の管理をしてくだるおばあさんがいたり、学校の下校時になればそろいのジャンパーを着て子どもたちの安全確保をしてくださっていたりと、そんな中で私たちは暮らしていました。また、保護者も積極的にPTA活動に関わるような雰囲気で、年配者も若い世代も子どもたちも、いつでも顔の見える付き合いをしていました。
そして、震災のお話をします。あの震災では、地域が沿岸部にあったということから、学校に在籍している児童の半数ほどの家屋が津波被害に遭いました。私の自宅も全流出してしまいました。当時、長男の中学校卒業式のために私と主人と同じ中学生の次男も一緒に卒業式に参列していました。卒業式のあと浪江町の写真館で記念写真を撮り食事をしてから、小学生の三男を3時にお迎えに行く準備のため、自宅に2時半ごろに戻りました。そして、着替えなどをしているところに、あの地震がありました。
家族一緒だったことは幸いしていたかとは思います。その後、地域にある近くの避難所に避難しましたが、その直後に小高区の防災無線から、子どもを迎えに来るようにと放送が流れ、三男のいる小学校へと移動することにしました。道路が陥没しているということも消防の方から聞いていたのでとても怖かったのですが、消防の方に安全な道を確認しながら、私がPTA会長を務めている小学校に向かいました。
小学校に到着してすぐに、三男の様子を遠くから確認して、私はPTA会長として、そのまま先生方と一緒に避難所運営に入りました。避難所になっている小学校に続々とやってくる見慣れた地域の方々に声を掛けながら、それぞれの被害の状況を確認し合いました。小学校の児童の中には津波の犠牲者はいませんでしたが、保護者や家族、近隣の方など、時間を追うごとに犠牲者の数が増えていきました。
その晩は夜通し、火に当たりながら外にいる人もいました。あとでわかったことですがそのころ、隣町の浪江町までは原発の情報は入っていて、早くに避難がされたようです。しかし、南相馬ではそこまでの情報はなく、原発の心配はせずに、あしたからの避難所運営だけを心配していました。地域の主立った方などが夜通し外で火に当たっていたり、消防団は翌日の捜索に備えて校庭に待機したりしてました。私は、職員室で、翌日の避難所運営について校長先生と相談しながら夜を過ごしていました。その時は、自分の自宅が津波流出したことを考える余裕もなく、あしたから地域の方々と協力して何とかやっていこうと思うばかりでした。
翌日になって、私は避難している皆さんに配給できる物をなんとか配給して、仕事を終えました。ちょうどその時町の防災無線でガソリンが給油できるという案内があったので、ガソリンがなかったものですから、町のほうに向かいました。実際には、そこでガソリンを入れることはできなかったんですけれども、お昼ごろ学校に戻ったら、避難している皆さんが原発から15キロ先に避難するということになり、同じ小高区内にある中学校に避難していきました。でも、校長先生と私と教頭先生は、まだ安否確認のできてない児童がいたものですから、取りあえず5時までは学校にいようということになりました。つまり、その時に原発の危険性をそこまで把握してなかったということです。
校長先生と校長室で、あしたのこと、これからのこと等、いろいろお話をしている時に、3時36分のあの(原発の)爆発を大きく感じました。でも、その時は、前日の津波の恐ろしい体験をしているものですから、また別の地震が来たんだと思いました。外にいた消防団に聞いた際にも、もしかしたら昨日より大きな津波が来るかもしれないということで、先生方と一緒に、言葉どおり命からがら15キロ先の中学校に向かって避難をしました。それが4時近くになっていたと思います。
小学校ではテレビもつかず、ラジオ一つからしか情報を得ることができない状況でしたが、中学校に避難してからは、校長室でやっと原発についての報道を見ることができました。その際にもまだ、今起こっていることが何なのか分からずにテレビを見ていました。それが4時過ぎになって、あの時の振動は原発の爆発だったということを初めて知りました。知ったからといって、防護の仕方も何も分からず、先生方とどうしたらいいかと考えました。校長室で、ゴム手袋を用意しようかとか、給食室から帽子を用意しようかとか、カーテンは閉めたほうがいいんだろうかとか、誰も何も分からない状況で、なすすべもないという感じでした。そこで、ほんとに何もできずに過ごしていました。
夜7時ぐらいにまた避難することになりました。その時には、20キロ先の原町区にある小学校に避難するということになりました。ですが、何回も避難を続けると、1人、2人と避難先をそれぞれ探して避難していくようになります。私も、主人の実家が鹿島区だったものですから、地域の方々と離れて鹿島区に避難することを選びました。
鹿島にその後2泊して、今度は14日の午前中、南相馬市全域では防災無線による屋内退避の広報がありました。どこでも混乱していたと思いますが、指示が二転三転し、はっきりしないなと感じました。テレビでの政府の会見でも状況が理解できなかったりしたことから、避難先のあてもなく車のガソリンが底をつくのを心配しながらも南相馬を出ることを決心しました。
14日の夜は、福島市の知人のお宅にお世話になり、翌日の15日は、避難所として開設したばかりの福島商業高校に避難し、またその翌日は、猪苗代の体育館が空いているという情報から、どうせ避難するのならばもっと遠くに避難しようと思い、吹雪の中猪苗代の体育館に16日に移動しました。そして4月8日には新潟に向かいました。
子どもたちの学校の関係で、まだ南相馬市の小学校の再開の予定が立っていないということと、入学を控えていた長男の高校の再開も5月になるということで、遠ければ遠いほどいいだろうと思い、4月8日から新潟に入りました。新潟では25日に体育館が閉鎖されるまで過ごし、その後また旅館に移動。そこがやっと2次避難所として、南相馬から準備していただいた場所になるんですけれども、その旅館に4カ月過ごし、またその旅館が避難所としては閉鎖するということで、借り上げ仮設住宅を自分で探して移動するということになりました。
突然、私たちの地域は避難指示区域となってしまい、普段生活していた場所から出ざるを得なくなったにもかかわらず、本当にその避難先が安全かどうなのかも分からないまま、自分たちの判断でその都度その都度、避難を繰り返していくしかありませんでした。その結果、避難指示区域でも特に一斉に避難できなかった南相馬の区域は、避難を繰り返すごとにどんどんコミュニティがバラバラになってしまいました。先ほどお話ししたとおり、以前からとても強い結びつきのあったコミュニティを離れて散り散りバラバラになってしまいました。そのために、家族や親族、知り合いが津波の犠牲になっていても、置いて避難、遺体捜索を打ち切っての避難ということになりました。このことは、言葉にもできないほどのくやしさと悲しさがこみ上げてきます。津波被害だけであれば、地元の人たちと思いを共有しながら心を回復することができたのではないかなと思わずにはいられません。
避難先は新潟ではありますけれども、20キロ圏内が避難指示区域になり、そこを一歩出たということは、新潟も北海道もどこも私は同じだと思っています。コミュニティというのは、土地があってコミュニティとずっと思ってはいましたけれども、それがバラバラになってしまったところで、どんなふうにつなげるのかというのが困難への挑戦でした。精一杯4年半やってきたんですが、コミュニティは土地もありますけれども、土地の中で人と人とのつながりということが基本であるということを確信しました。究極の中での確信を体験した4年半だったと思っています。
そんな思いから、2011年から年1回ではありますが、クリスマスの時期に避難元の子どもたちへ向けてメッセージを送っています。これは、避難している子どもたちへ届けるのはもちろんですが、それを手に取った保護者や家族や、そのことを聞いた地域の人が、自分たちを忘れないで応援している人がたくさんいるということを感じてもらえたらなと思い続けています。全国に散り散りバラバラになったことで、孤立して孤独になったり、友達はできても、あの時、そして今までのことを理解して共有する相手がいなかったりしたこと、それを、メッセージを送ることで、心を寄せている方々がたくさんいることを伝えて、どこに避難していようと応援者がいるということを実感することができたらなと思って送っています。
原発や放射能に関しては全く触れてはいないんですけれども、それぞれがストレスのないように目を通してもらえたらなと思って、そういう内容になっています。このごろ、いろんな災害がありますので、避難している子どもたちも地域の人たちも、住み慣れない所で、知らない場所で過ごす中、何か災害があった時には対処できるかなという心配から、そういう内容も入れて送っています。
避難者の状況は、4年半が経過して多様化しているといわれています。私が見える範囲の状況ではありますが、避難区域からの県外避難者は何とか生活再建しようとしています。しかし、同じ避難区域からの避難でも、年代によってかなり違います。まだ子どもが社会人になっていない家族は、定住先を決めかねている人も少なくありません。もちろん定住を決めた人もいますけれども、家を再建した人の中にも、ここはまだ仮の住まいと言っている人もいます。私の避難先には自主的に避難している人もたくさんいますが、その方々も、経過とともに帰還した人、母子避難だった方が避難先で家族一緒に暮らすようになった人、それぞれの動きがあります。それでも共通しているのは、すぐに避難できなかったことによる健康の不安です。
その部分で、避難先の住民有志と一緒に幾つかの取り組みをしています。まず、帰還した家族が定期的にリフレッシュする場所を提供する取り組み。そして、帰還した家族と避難を継続している家族が交流する場の提供。また、バラバラになった子どもが再会できる場所の提供。
この取り組みは2012年の夏から行っていますが、年々需要が多くなっています。参加者は、帰還したことでリフレッシュしながらバランスをとっているようです。4年半が経過したからこそ、移住を念頭に置いたリフレッシュもあります。どのような選択をしようとも必要なことと思っています。この、場所を提供というところですけれども、キャンプ形式の、子どもたちを集めた保養というのはよくありますが、私たちが避難先の人たちとやっている取り組みは、家族一緒に過ごすということ。お父さんも含めて、乳幼児も含めて、みんなで来れる場所を提供しています。
当初は福島からの避難者ということで、一致団結していたような雰囲気がありました。その後いろんな問題があり自主避難、強制避難というような壁ができました。もともとのコミュニティの中でも年代別に思いが違ったり、やることも違います。自主避難でも強制避難でも、一致する部分は何かある、趣味の部分だったり。私はいろいろと付き合ってはいるんですけれども、何かしら人との関わりの中では、どこかしら探れる部分がたくさんあると感じながら、4年半過ごしてきました。これからも、日常というものは地道なものですが、そんな地味な日常を、これからまた過ごしていきたいと思います。
また、もう1つの取り組みとしては、やはりこれも避難先の住民と一緒に行っている取り組みですが、健康や生活の心配に対する相談会を開いています。内科の先生や整形外科の先生、リハビリ科、あとは心電図の検査をしたり、甲状腺の検査、また、法律相談だったり生活相談などのブースを準備して行っています。この取り組みも、落ち着くというよりも、当初よりも参加者が増えているように感じます。今起きていること、特に健康についての確認は、納得するまでしたいものだなと感じます。
避難区域に戻るのは高齢者ばかりだと言われていますけれども、そもそも、避難元の地域は若い者は進学を機に、県外や東京といった都会に出ていくのが普通のことだったと思います。今は震災で避難状態であるからなおさらということになりました。元々がそういう状況でしたから、今になって急に子供や若者たちに戻ってほしいと希望を持っても、もうどうにもならない気はします。
私は自分の子どもとは、福島のことを普通に語ったり時には批判したり、震災前と同じような感じで普通に暮らしています。自分の子どもに関しては、あえてか普通かわかりませんが、あまり南相馬の話はせずに暮らしていました。この間、夏にテレビでどこかのお祭りを見た時に、今は高校生になっている下の2人が、相馬盆唄を歌ったんです。「そういえば」と言って2人で合わせながら、組み合わせて相馬盆唄を歌い切りました。もっともっと先20年30年先、子供達が大きくなった時に、そういう自然な流れが普通になればいいと思います。
避難先の新潟から南相馬に月に何度か往復しています。毎日毎日が精いっぱいの中で、その一人だけの移動時間をとても大事にしています。日帰りで往復すると七時間の車の個室の中で、たった一人の時間で、過去のことだったり、子供のことだったり、未来のことも考えたり、いろいろと考えながら歩っています。
日常は精一杯で、未来のために、今こうやって何とかできることは、一つ一つ記録を残していくということではないかと思います。だからこの会も、12回開催されて、現状の一部の報告ではあるとは思うんですけれども、世の中の一つの記録として残っていくということが、未来へつながるということだと思います。そして、私たちは、起こってしまったことに対して、それを学習したのだから、失敗は繰り返されないように努力することが大切に感じます。そして、起こってしまったことに対して、福島に住んでいる人も避難してる人も、福島県外から来てくださっている方も、それぞれが精いっぱいできることを取り組んでくださっている、これを地道に、何十年でも続けていくことが、未来へ続くということなのではないかなと感じました。
(2015年9月第10回ダイアログより)