文章:安東量子
住民の避難先がバラバラになってしまったなか、地域の歴史や伝統をどう伝えていくのか。これまで人が人を呼び、多様な人が集まって議論を重ねることで、暮らしをより良くしていく手法を考えてきました。今回は、伊達市富成地区の富成太鼓の発表内容から地域をつなぐ伝統と文化について考えます。
ここまで、原発事故後に起きた「分断」についてずっと見てきました。一方、それをつなぐための動きもありました。そもそも、継続的に開かれてきた私たちのダイアログも、「私たちのダイアログとは?」で見てきたように、原子力災害後には、社会が引き裂かれてしまったチェルノブイリ事故後の経験を踏まえたものでした。分断をつなぐためには、立場の違う関係者たちが集まって、議論をして知恵を絞って自分たちの暮らしをよくしていく手法を一緒に探していく、それがダイアログの当初からの目的でした。
勝見五月さん:そういう意味ではダイアログはうんといい役割を果たしたじゃないかなと思います。すごく反対の人も参加していましたし、誰でも言いたいことを言えるスペース、役割もあったのかなと思います。主体が行政でなかったからじゃないかなと思います。ICRPなどが主催で、そこに普通の参加者として伊達市長が来てみたり、行政も来てみたり、みんな平等。平等の立場で話をするって、あまりない形じゃないですか。誰に対しても平等な感じでした。高校の先生も来ました。人繋がりでお願いして高校の先生に来てもらってお話を聞くと、(小学校教員である)私たちと立場が大きく違ったりすることもわかりました。私自身が、人を繋げながら自分も繋がった部分があります。皆、参加者はそうだったと思います。人が人を呼ぶみたいな事をやってましたもんね。
ダイアログの参加者は、口コミよって集められていました。テーマが決まると、そのテーマに関係する人を口コミで探して行き、参加をお願いするという形がほとんどでした。なるべく偏りが出ないように、同じような立場の人ばかりとならないよう、バランスが配慮されていました。そして、「平等」であることは大切でした。専門家も、行政も、地元の人も、先生も、みんな平等。なぜなら、それぞれがそれぞれの現場での「専門家」だからです。
ダイアログで取り扱う内容も、時間の経過とともに少しずつ変化していきました。
半澤隆宏さん:最初の頃は、専門家が「俺が、俺が」とやって来て、どれが本当なんだ、ということもあって、放射線に関する意見や情報が中心になった。だけど、少し落ち着いてきて、ある程度みんなの目線があってきたら、今度は少数意見やマイノリティの意見をどう取り上げるか、という視点になって、放射能以外の個別の話題も増えてきた。最初の頃は、放射能のことに直接関係する「食品」などがテーマだった。そのうちに、「祭り・文化」とか出て来た。「それでなにを話すの?」と思った。でも、話してみると、祭りや文化でつながっていると復興が早いと聞いて、「なるほど」と思った。それから、時間が経つにつれ、対立的ではなく、こういう場合はどう? と個別の議論ができるダイアログ になってきた気がする。
ダイアログで「伝統と文化」をテーマに取り上げたのは、2014年12月に開かれた第10回ダイアログの時でした。半澤さんが言うように、ICRPという放射線防護の専門家組織が主催する集まりで「伝統と文化」という放射線とはまったく関係ないと思われるテーマを扱うことを、怪訝に思った人もいたようです。ただ、実を言うと、伝統文化の継承という観点は、避難区域となった地域の参加者などから、それまでのダイアログで何度も指摘されていました。
原発事故の避難区域となった地域は、昔からの村落共同体が残っている地域も多く、また、村落でなくとも、町の規模が小さかったせいもあり、地域のつながりは強いところがほとんどでした。そのため、原発事故が起きる前から、学校の授業の一環として、地域の歴史を学ぶことを狙いとして伝統芸能の実習授業を行っているところも少なからずありました。事故前から、地域の芸能や伝統行事は、地域をつなぐための核になると認識されていたのだと思います。それは日本だけでなく、他の国でも似たようなものであったようです。
僕もウクライナに行きましたけれど、人に戻ってもらうためには何がいいですかと尋ねたら、「芸能、芸術ですよ」と返事をもらいました。ですから、ウクライナのリハビリセンターには、地域の方が発表するためのステージがちゃんとあるんですね。(2012年11月)
事故が起きて地域の人たちの悩みとなったのは、避難先にバラバラになってしまったなかで、地域の歴史や伝統をどう次の世代に伝えていくのか、ということでした。
ここでは、2014年12月のダイアログをはじめとして、何回かダイアログに参加し、演奏も披露してもらった、伊達市の富成地区の富成太鼓が地元でどんな風に伝えられていっているのかを、当時の発表内容から振り返ってみたいと思います。
原発事故直後、伊達市の富成地区は、避難区域にこそ指定されませんでしたが、地域内の世帯の一部は「特定避難勧奨地点」とされるなど、大きな影響がでた地域のひとつでした。
勝見五月さん(元富成小学校長):富成はあの時すごく困ってたんですよ。2011年4月20日に屋外活動制限校として選ばれ、新聞にも出ました。「選ばれ」って、普通はいいことにしか言わないじゃないですか。でも線量が高い学校の13校に入ったということだったんです。そうしたら、除染はどうすればいいか、子どもたちへの心配や、地域の不安はとか考えなくてはいけませんし、県内外の方からも色々言われて、マスコミもたくさん来たんです。そういう中で、除染プロジェクトが7月から始まって、今度は(除染で)伊達市内では一番線量の低い学校になりました。伊達市内だけでなく、地域の中でも、一番放射線量が低くて一番安全なところになったんです。
後で話したりしたときに聞いたことですが、地域の人達は、まだ自分達の家の除染は終わっていなくて、線量が高くて、自分の家がまだ大変だったので、内心は、心からは喜べなかったんだそうです。でも、自分たちの子供が日中過ごすところの線量が低くなるのはいいことなので誰も反対しなかったんだそうです。
伊達市での除染の取り組みは、他の自治体に比べれば早い方でしたが、それでも年単位の時間がかかり、地域の人たちが落ち着いて暮らせるようになるには時間がかかりました。伝統と文化を取り上げたダイアログに参加してもらったのは、除染も終わり、少しずつ地域が落ち着きを取り戻し始めた頃でしょうか。
この時には、富成太鼓の指導にあたっていた柳沼守さんにおいでいただいて、その後には、太鼓の実演もしていただきました。
柳沼さんには、まず、どんな風に富成地区で太鼓が伝えられているかをお話いただきました。当時の原稿を採録します。
改めまして、柳沼守と申します。
なんせ私口下手なもんで、うまく伝えられるかどうかちょっと心配ではございますが、一生懸命頑張って熱を入れて発表したいと思っております。よろしくお願いいたします。
地元の富成の諏訪神社は、上方部 (カミホウブ)と下方部 (シモホウブ)と2つに分かれています。下方部が約210軒、私は上方部の担当で、いま現在、だいたい110軒ぐらいです。太鼓を練習したり屋台を引っ張って上がったりするのは、「若連(ワカレン)」と言いまして、俺たちがやってる頃は35歳までが「若連」と呼ばれてその担当をしておりました。いま現在は人数も少子化されて少なくなっており、今の若連の会長さんはもう40近いです。私も25年前に若連を卒業したんですけれども、顧問という形で参加させていただいております。
顧問と言うとなんとなくかっこいいんですけれども、雑用係みたいなものです。毎年、太鼓練習とか実際のお祭りまでに太鼓のバチをだいたい50組約100本くらい、大太鼓で10から20組のバチを作っております。全部無報酬です。でも、それが私にとっては好きな仕事でありまして、お祭り大好き人間だと自分でも思っております。
朝の9時半頃出発して、各部を回って歩くんですけれども、朝9時から大体夜の8~9時頃まで回って歩きます。まず出発の時にお神酒といって、通常お酒ですが、少し体に入れて、気合を入れて引っ張り、そして中で太鼓を叩いてという儀式をやってから出発いたします。諏訪神社の本体は、大体400年前に建てられたということで、お祭りに関しては春と秋とあります。春は2月の26、7。秋が10月の26、7と2日間に渡ってお祭りをするわけでございます。春のお祭りは最近は寒いということで、中で代表の方が拝んでいただくという形を取っておりまして。秋の場合のみ屋台というか山車を引っ張って歩いております。
実際、屋台を引いて太鼓を叩くわけですけれども、練習をしないと上手に叩けないので、お祭り前、2ヶ月前ぐらいから、子ども達と大人の若連の方に分かれて、子どもは6時半から8時、若連の方はその後8時から9時半という形で練習をしております。自分たちの頃はほぼ毎日やっておりました。
今はいろんな状況もあって、週2、3回の練習です。今の方たちは覚えが早くて、俺たち1週間やってもできなかったことが今の皆さん方は2、3日でぱぱっとすぐできる。そういう人たちが多いようでございます。2ヶ月間ぐらい練習するんですけれども、その合間に1回2回、中帳場と言って子どもからお年寄りまで一緒になって食事をします。この中帳場をみんな楽しみにしております。自分などは、この中帳場がなかったら太鼓の練習には行ってなかったかななんて思っています。食事しながら飲みながら、その合間に太鼓の練習もしながら、こうやんだ、ああやんだって言いながら、上から下まで話のできる唯一の機会で、和気あいあいと中帳場を延々とやっております。
お祭り当日に、屋台が、部落ごとに回って歩きます。大体予定時間を先にお知らせをしておきますが、遠くから太鼓の音が聞こえると部落の皆さんが集まってきて、屋台を待っていてくれます。それでお花、中身は現金なんですけれども、皆さん「ご苦労さん」という気持ちを込めたお花というものを頂戴いたします。その代わりに、(祭りの飾りに使っている)「お花」を差し上げてます。
ちょっと余談になりますが、昔のおじさんが叩いた頃の太鼓と今の太鼓は、変わってきています。おじさんからすれば早くて叩けねえって必ず言われます。なぜか。自分なりに考えてみたんですけれども、俺のお父さん、おやじが太鼓を叩いていて、1回だけ教えられたことがありました。「遠くに聞こえるように叩かないやつは下手だ。今は近い人に迫力あるように叩かないと下手だ」と。それが違いです。なぜかといえば、昔は、他の部落のお祭りで太鼓を叩いているのが聞こえると、「あそこで太鼓叩いてるからお祭りやってる」と言って歩いて行ったそうです。そういう叩き方すると近くの人に聞こえないんです。遠くの人にしか聞こえない。そういう叩き方だったそうです。今は、近くで見ている人にガンガン聞こえるように、そういう叩き方ですので、昔の上手かった人たちは「早い」とみんな言います。年々早くなっております。どっちかと言うと自分も遅い方が好きなんですけれども、負けてらんねえって言って早く叩きます。
平成21年からですか。富成小学校の児童数もだんだん減ってきました。平成21年の時の校長先生でした勝見先生の時に、6年の担任の先生から学校の生徒さんにも教えてもらえないかっていうことで、学校の授業として今、毎年、冬場練習するようになりました。
1回目の生徒さんがこちらにいる秀人くんなんですけれども、この子は学校に上る前からお兄ちゃんお姉ちゃんと一緒に付いて来て練習には来てました。来てても練習はしなかったんですけれども、その遊んでいる中でも全部耳で覚えてるんですよ。いつの間にか入っていた音が思い出せたかのように叩けるようになってきます。ちょっとしたことを教えれば、すぐ覚えます。
今年で6年目です。富成の小学生の人数も少ないんですけれども、秀人くんの時は6年生が15人。今年は11人でした。去年は5名だったと思います。今までやってきて、全然叩けなかったという生徒は1人もいませんでした。子若連に入っている方はほとんど叩けますが、入ってない方は0からのスタート。いちいち左右、左右と、強く叩くところ、弱く叩くところを教えていきます。授業1回の50分では叩けるようにはなりませんが、次の回までにはこれできるようにやってきてねと宿題を与えると、完璧にやってきます。不思議だったんですが、6年生の中ですごい連帯感が生まれるんです。そこで必ずリーダー的な人が出てきて、その人が手取り足取り教えているようなんです。だから信じられないぐらい覚えが早いです。これにはびっくりしています。
学校で太鼓を教える時には、ほとんど基本しか教えません。基本だけですが、上手になってくると、一人一人自信が生まれるんです。そうすると叩く格好も変わってきます。最初は棒立ちの感じで叩いているんですけれども、格好が前かがみになって形まで良くなってきます。こういうのは人から教えられるもんじゃなくて、自分で自然になっていく。それを見ると、本当に太鼓が好きなんだなという気がします。
平成23年3月、原発事故がありまして、諏訪神社も放射線が高く子ども達の練習場所には向かないんじゃないかということで、今は公民館で練習はしています。市長さんのおかげで除染をしていただきまして、現在はかなり低い線量で、ここで練習しても差し支えはないとは思うんですけれども、心配する親御さんのために、練習は引き続き公民館でやっております。
事故当時は消防団員として活動していて、爆発した後も1週間ぐらいは外で毎日水運びですとか、奉仕活動をしていました。その時点では放射能の怖さというのは、全然分からなくて、あとでテレビ、新聞等で知りました。うちの2番目の子どもだけは九州に半年くらい、避難はしました。親から、「避難しなさい」とか、「ここに留まりなさい」とか言えるだけの知識もなく、自信はありません。今でもありません。近くに兄弟もいますが、兄弟でも違います。気にしない兄弟と、全部線量を測って食べる兄弟といます。線量に対しての考え方はこれくらい違います。あんまり考えすぎたのでは俺の頭の中では整理できないなと思っていて、なるべくストレスを溜めない生活をしていきたいなと今では思っております。
自分が仕事を始めて、それから四十数年間、お祭りに参加させていただいていて、本当に楽しくて楽しくて、毎年お祭りが来るのが本当に待ち遠しいくらいです。昔は4年に1度の遷宮祭といういうときにしか太鼓を叩かなかった。4年に1回しか太鼓の練習はできなかったんです。それではやっぱり太鼓を覚えてもらえる人が少ないということで、毎年練習しようじゃないかと言うことで今に至ってるわけです。
やっぱり好きじゃないと参加はしないと思うし、やってみないと好きにはならないと思うし、自分の場合は先輩から「やってみないか」という形で誘われてやってみたら難しくて、なかなか覚えられませんでした。あるときに、みんなを集めて指導してくれる方がいまして、その時にちょっとしたことで叩けるようになりました。それから本当に、毎回毎回太鼓を叩くのが楽しみで楽しみで今に至ってるわけです。そういうきっかけづくりに自分はなりたいと、今思っています。
それで、子どもたちにも教えたりしているんですけども、それが伝統につながるのかなと思ったんですけども、そういう気持ちでは一切参加はしていません。本当に好きだからやってるというだけで、好きじゃねえと多分継承もしていかないんじゃないかなとは思っております。今のうちの若連たちは十数名で構成しておりますけども、みんな好きで毎回全員参加という形で練習が行っているようですので、俺が生きているうちは多分大丈夫かな、なんて思ってます。それが長く長く、1年でも長く続いていけるように自分、努力していけたならとは思っております。以上です。
(2014年12月7日第10回ダイアログセミナーの発表から文字起こし編集)
柳沼守さんは、2019年ご逝去されました。本稿は、ご家族にご許可を頂いて掲載致しました。生前のダイアログへの貢献に感謝するとともに、心からご冥福をお祈りいたします。
発表スライド
https://drive.google.com/file/d/0BxqSmDmQ78xCU2dNRFVLQ3IwbEE/view?usp=sharing
発表動画 https://www.youtube.com/watch?v=I4CXmKwzDSI
柳沼さんにお話をいただいた会のダイアログでは、太鼓の実演もしてもらいました。その時の映像は、動画として残っています。
柳沼守(富成)佐藤秀人(保原高校)、菅野亜実(松陽中学校)、石川哲也(富成小学校PTA)
この時に一緒に演奏に参加してくれたのが、当時高校生だった佐藤秀人さんです。ダイアログにも参加した佐藤さんは会場でこうコメントしました。
佐藤秀人さん:僕はお祭りが本当に好きなので、これから就職もありますけれど、できれば地元から通えるところに就職して、太鼓を残すため、というよりも自分が叩きたいだけなんですけれど、自分が叩くために地元に残ってずっと暮らして行こうかな、と、今日の話を聞いて思いました。今日、本当は怖くて緊張してここに来たくなかったんですけれど、だけどいろいろな話を聞いてとても勉強になったし、来てよかったと思いました。(2014年12月)
勝見五月さん:最初、秀人くんは、「自分はそういうとこには出たくない、絶対嫌だ」とダイアログへの参加を何度も断ってきて。そう言ってたんですけども、参加してたくさん話して、最後に帰りの別れ際になって「先生、僕は来て良かった」と言ってくれたのがすごく印象に残っています。
この時の会は、飯舘村や福島市の伝統芸能を伝える関係者もたくさん集まり、地域に根付いた伝統と文化の意義について熱心な議論が交わされました。
私は、老人と子供も共有できるもの、それはお祭りだと思っています。(2014年12月)
地域の老若男女、普段はいないような人も遠くから戻って来て混ざるのは、お祭りくらいかなと思います。(2014年9月)
避難をして県外に行ったり、地域外に行ったりしている方も、お祭りには帰って来て、子供同士、親同士が交流をしている。どうしても親御さんは、自分たちが出て行ったことに対して「後ろめたい」とか「話したくない」とかいう気持ちもあるようですが、そういうお祭りの時には子供同士はまた仲良くできる、これはすごく嬉しい側面だと思います。(2014年9月)
直接的な「復興」とは違うかもしれませんが、原発事故のあと、傷ついてしまった地域のつながりを取り戻すために、地域の文化であるお祭りは、人びとを力づける役割を持っていたのではないでしょうか。面と向かって話すのは気が重いことは多くあります。そんな時も、一緒に楽しめる祭りを介在すれば、その場の雰囲気を共有することができるし、共有できる出来事があれば会話することもできる。大切にできる「何か」を共有することが、人と人とのつながりを作り、また結び直すために、大きな意味を持つものでした。
その1年後の、2015年12月にも富成の太鼓をダイアログで披露してもらいました。
諏訪神社の祭太鼓(2015年12月)
柳沼守 、佐藤航介、佐藤亮平、佐藤秀人、西戸拳斗、菅野亜美、菅野桃花
けれど、こうしたお祭りがあっても、少子化の流れは止められませんでした。在校児童数の減少によって、富成小学校は、2018年に閉校になりました。震災当時は60名ほどいた児童数は、閉校直前には15名ほどに減っていました。それは、もともと予測されていたことではありましたが、原発事故によって10年ほど早まったのではないか、と勝見さんは言います。
勝見五月さん:事故前に自分たちで計算していたんです。いつ頃から複式学級が始まり、入学生が少なくなり、学校の存続が厳しくなってくるかな、と。それが、あの当時の予測で20数年後でした。でも予想以上に子供が減った事と、学区外に行きたいという子供達もいたこと、それから親御さんの中に不安があって富成小学校に入学させることに積極的でなくなった人が増えたこと、それ以外にも、幼稚園の人間関係が難しくなって、人間関係が継続する富成じゃないほうがいいという方もいらしたようです。
除染が終わって、2~3年すると学校にも情報が無くなったのかもしれません。先生方も転勤で入れ替わるじゃないですか。私が学校辞めた時には人数に変化はなかった。それが、4人目の校長先生の時の頃までにはかなり減ってしまった。学校の校長はほぼ3年ごとに変わるので、やっぱり語り伝えることも難しいことですよね。そして1年生だった子供が5、6年になって、新しい子供たちが入ってくる頃、雰囲気が変わりました。事故当時、不安が大きい幼稚園だった子がだんだん入学時期になって、それで富成自体も変わって来たように思います。
富成小学校は、地域ぐるみで除染を行い、事故当時にその経験をしている保護者たちは、たくさんのボランティアの人たちにも支えられ、大変な状況の中でも、自分たちで立ち向かえる覚悟を持てたのかもしれません。けれど、保護者が入れ代わり、教員も入れ替わっていく中で、その時に経験し、蓄積したことを地域の中で伝えていくのは、簡単ではなかったようです。
これは、影響が長期にわたる原子力災害の難しさを示しているように思います。事故が起き、少なくない人たちは、未知の事態に立ち向かうために、いろんな人たちの助けを得ながら、自分からアクションを起こしました。そこで様々なことを学び、対処方法も対処するための人間関係も得ることができました。ですが、時間が経過すれば、人は入れ替わります。転勤もあれば、引越しもある、何もなくとも世代は交代していきます。知恵も思いも、目に見えないものは、一人一人の人間の中にしか蓄積されません。一方で、人間は忘却する生き物でもあります。当時の経験を伝え、知恵を維持するための仕組みや工夫がなければ、人が入れ替わるごとに記憶は薄れていってしまうのだと思います。これは、富成だけではなく、原発事故の被災地となったすべての地域に共通することではないでしょうか。
その後、2018年12月の福島ダイアログにも、佐藤秀人さんにおいでいただいてお話をしてもらいました。当時、高校生だった佐藤さんは就職して、社会人になっていました。
こんにちは。佐藤秀人です。
今日は僕が伊達市保原町の富成地区富沢で暮らし続ける理由である諏訪神社の若連太鼓についてお話しさせていただきます。
最初にまたダイアログに来て欲しいと言われたときに、僕は話すのがあまり得意ではないので、本当は太鼓の演奏を見てもらいたいくらいだったんですけれども、がんばって僕がどれだけ太鼓が好きかお伝えできればいいなと思います。
僕は伊達市保原町富成の富沢地区というところに生まれました。
伊達市は、12年前に伊達郡の伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町の五つの市と町が合併してできました。保原町もそのなかのひとつの大きな町になります。保原町には小学校が五つと中学校が二つあります。富成小学校は、そのなかで一番小さな学校になり、現在の学区には1,000人ちょっとのひとが住んでいます。
他の学校は何クラスかありますが、僕が行っていた富成小学校は1クラスだけで人数は15人しかいませんでした。少ない人数だからこそ、みんな打ち解けて仲良くやっていける点はよかったと思います。
諏訪神社という神社を拠点として、太鼓の練習をしています。物心がついたときくらいからこの神社に通っていたのではないかと思います。ただ、神社には通ってはいたのですが、実際に太鼓を叩いて練習していたかというと微妙なところで、当初は遊びに行くのが目的でした。お祭り本番の時は、さすがに太鼓を少し叩くのですが、初めてお祭りで大太鼓を叩いたとき、とてもその時に気分が高くなって、すごく楽しいと感じるようになったのを今でも覚えています。その時から来年の練習からは大太鼓を練習して、うまくなろうと初めて太鼓に熱心に向き合った日だと思います。
太鼓を自分が叩いている時は感じないのですが、後から映像をみた時など、太鼓の動きはなるべく大きく見せた方が格好いいなと客観的に思うので、腕の上がり方だったり、体の上下の動かし方だったり、フォームを意識して練習しています。フォームを意識する他にも、自分で新しく叩き方を考えます。「サク」と言われるのですが、その新しい「サク」を考えながら、またフォームを意識して、どれだけみている人にすごいと思われるかを、日々探求しています。「サク」は、先輩たちから教えられたりすることもありますが、自分で考えることも高校生くらいからやっています。
僕が太鼓を教えてもらっていたのは、この写真の右側に写っている佐藤航介さんなんですけれども、前回のダイアログ の時に太鼓を披露した時も、一緒に市役所で叩いていただきました。僕の姉と兄はあまり太鼓に興味がなくて、二人から教えてもらうということはなく、若連の先輩である佐藤航介さんから教えてもらうのがほとんどでした。
震災が起きた時は、僕が中学校一年生で、三学期の終わりが近い時でした。その年のお祭りの本番がどういったものだったのかは鮮明には覚えていないのですけれど、この震災の影響で小さい子供たちが引っ越して行ったり、練習にあまり顔を出さなくなったのが印象に残っています。神社では、放射線の線量が高くて、練習に使えないということもありまして、震災が起きた年は、地元の公民館で練習をして、お祭り自体は例年通り開くことができました。その次の年は公民館ではなく、小学校の体育館をお借りして練習していました。
2014年の12月と2015年の12月のダイアログで、僕は先輩や後輩と太鼓を叩いて話し合いにも参加させていただきました。その時に、震災について僕が話したことは、後輩たちが震災の影響でいろんな行事ができなかったり、祭りにかんしては例年通り開催していたのですが、楽しい行事がなくなったのを聞いたのは残念なことだということ。僕は太鼓がとても好きで、就職と同時に太鼓に来なくなってしまう先輩とかもいたのですが、僕は太鼓を叩くために地元に残って、地元で就職して、太鼓を続けていければいいなという話をしました。
いま、その時に言ったとおりに地元で就職して、太鼓を続けています。
富成という地域は、富沢という僕が住んでいる地域と、学校を挟んで向こう側になる高成田という地域を合わせて、富成といいます。高成田の太鼓は、10年くらい前、震災前に、少子化の影響で祭りの太鼓もできなくなって、なくなってしまいました。でも、高成田にも太鼓に熱心な人はいて、いろんな地域の若連に参加して練習しています。富成の富沢のなかでも上方部と下方部で若連が分かれていて、僕は上方部で練習をしています。
富沢は、上でも下でもお祭りが続いています。高成田の祭りをやらなくなった原因は少子化なんですが、少子化の影響は上方部にも下方部にもありまして、どんどん人が少なくなっていくと、地域を一日かけてまわる祭りなので、どうしても一人一人の負担が増えてしまいます。
富沢の祭りでは、最近は毎年、保原町の他の地域の若連から応援をもらって祭りを手伝っていただいています。他の地域の若連の人たちは、他の地域に行くほど太鼓が好きなので、一人一人それぞれが太鼓がとてもうまくて、とても助かっています。
これからの地域については、未来に向けて地域の太鼓を残していくことがひとつだと思います。社会人になってからは、富成の太鼓は勿論なんですが、応援に来てもらっているように、僕も他の若連に応援に行ければいいなと思って、最近は積極的に他の若連に応援に行っています。そして、他の病院や幼稚園などに行って太鼓を演奏して、太鼓の楽しさを他の人にも知ってもらえたらと思っています。
地域での太鼓のつながりから、一緒にあちこち太鼓の演奏会に参加させてもらっています。保原町にある陣屋どおりというところがあるのですが、そこでいろんな若連の人が集結して、みんなで一斉に叩いたりしています。これは震災以降、変わらず続いていて、団体は減ったり増えたりするのですが、毎年活気あるお祭りになっています。
もうひとつのこれからやりたいことですが、祭りの後の打ち上げ、直会(なおらい)を毎年続けていけるように後継者を育てていきたいです。地域に若い人はいるんですが、若い人のなかで太鼓に熱心な人はあまりおらず、これから太鼓の楽しさをどう若い人に知ってもらって、地域の太鼓を残していくかが課題になってくるのかと思います。
どう教えていけばいいのかを考える必要もあると思っています。僕が教えてもらったように、小太鼓を最初に叩いて、小太鼓を覚えたら大太鼓に入るという感じで教えてもらうのもいいのですが、それだと、僕が大太鼓を叩いて太鼓にはまったように、今の子が太鼓に夢中になれるのかどうかもわからないので、大太鼓から入ってもらうのもいいのかなと思うようになりました。
つたない言葉になりましたが、今日は聞いていただいてありがとうございました。
(2018年12月15日福島ダイアログ発表から文字起こし編集)
佐藤さんのお話から、人は減っていく中で、それでも、伝統の太鼓を少しずつ形を変えながら、受け継いでいっていることがうかがえます。原発事故がおき、地域の形は大きく変わったところもあれば、少しだけ変わったところもあります。ほとんど変わらなかったところもあるでしょう。ただ、日本全国どこででも、少子化と高齢化が進み、地方では過疎化が進んでいる状況は同じです。人口減少社会の中で、どのように地域の伝統をつなぎ、人のつながりを維持していくのかはどこでも共通した課題であるのではないでしょうか。富成の太鼓の伝承についての経験は、何かしらヒントを与えてくれるものだと思います。