文章:安東量子
福島第一原発事故後、専門家のみならず、多くの人が世界中から福島を訪れました。チェルノブイリ事故で影響を受けたノルウェーからも、農家8名が来日しました。彼らはどんな経験をしたのか。今回は、特に印象を残した「ネイラ・ヨーマさん」「ハプネスさん」ノルウェーの農家2人の発表を振り返ります。
ダイアログのもう一つの特色といえば、外国からの参加者が多くいたことです。これは、ICRPという国際的な専門家組織が主催していたことによるものでした。ICRPの呼びかけによって、世界各地から福島の状況を知りたいという専門家が継続的に福島を訪れ、実際に耳を傾け、自分たちの国に持ち返って様子を伝えてくれました。科学秘書官のクリス・クレメントさん(カナダ)は、2011年から2019年にかけて日本への延べ滞在日数が300日ほどになるというのを筆頭に、繰り返し訪れるうちに、日本や福島の応援者になってくれる人もたくさんいました。専門家だけではなく、チェルノブイリ事故の被災地から地元の人たちも訪れました。ベラルーシからはアナスタシア・フェドセンカさん、ノルウェーからも政府関係者と農家の人たちが訪れました。
ベラルーシはわかるけれど、なぜ北欧のノルウェー? と思われた方もいるかもしれません。チェルノブイリ事故から飛散した放射性物質は、ヨーロッパにも大きな影響を与えました。ノルウェーでも、細長く伸びた国土のうち、北部と中部の山岳部に放射性物質が降り注ぎました。それによって、ノルウェーの主要な農業である放牧による牧畜は、長期に渡ってとても大きな影響を受けることになったのです。ノルウェーは豊富な水資源と急峻な山岳地帯を抱え、その恵まれた自然環境を利用した水力発電によって、国内の電力需要をほとんど賄っており、原子力発電所はありません。ですから、原子力災害への備えは、事故前にはまったくありませんでした。
(参考資料)
アストリッド・リーランド「ノルウェーにおけるチェルノブイリ後の管理」(2012年2月第2回ダイアログセミナー)
日本語:
https://docs.google.com/open?id=0BxqSmDmQ78xCclctVlgydkVLSU0
英語:
https://drive.google.com/file/d/0BxqSmDmQ78xCSzlBU2RpZHFSMHlIZXhUYlh0Q2VuUQ/view
チェルノブイリ事故が起きてから「ノルウェー放射線防護庁(NRPA・現DSA)」という省庁が設立され、そこがずっと対応に当たってきました。ダイアログに参加したのは、主としてノルウェー放射線防護庁の人たちでした。
そして、その関わりはダイアログに参加するだけではありませんでした。2014年には、ノルウェー放射線防護庁とノルウェー大使館の支援によって、福島のエートスが日本側の窓口となって、「人と人の交流プロジェクト」が行われました。このプロジェクトでは、福島とノルウェーの被災者が互いの住む場所を相互に訪れるという事業が実現しました。これは、ダイアログを通じて知り合いになっていたノルウェー放射線防護庁から福島支援の相談を受けた福島のエートスが、「せっかくの機会だから、機材や資金援助といった一方通行の支援ではなく、それぞれが友人になれるような双方向の交流をしたい」と提案したことが実現したものでした。
まず、2014年5月にノルウェーの地元の農家4組8名が福島県の被災地を訪れました。福島市、川俣町、飯舘村の農家を訪れ、そこで現地の様子を実際に見ながら交流をしました。同時期に開かれたダイアログセミナーにも参加し、そこで自分たちの経験を発表してもらいました。
特に強い印象を残したのは、南サーミのネイラ・ヨーマさんの発表でした。ノルウェーは、国民の大多数をノルウェー人が占めていますが、先住民族であるサーミ族もいます。サーミは、北欧からシベリアにかけてユーラシア大陸の広い範囲に古くから住んでおり、トナカイを放牧して移動しながら暮らしていました。現在は、定住をしている人もいますが、チェルノブイリ事故で降下した放射性物質がサーミの住む地域に多く降下したこと、そして、トナカイが主食としている特殊な地衣類に放射性物質が付着したため、もっとも影響を受けることとなりました。
私はネイラ・ヨーマです。54歳です。結婚しています。子供が2人います。1985年と1991年生まれです。トナカイの放牧をしています。ノルウェー中部のノイルビーグという場所に住んでいます。
「チェルノブイリから27年、68年の放射能の歴史」ということでお話しします。
私はサーミという民族です。サーミ民族の間には4つの言語が存在します。東・北・ルーレ・南サーミ語です。私は、最後の南サーミ族に属しています。2000~3000人存在します。トナカイの放牧は、西はノルウェー、東はベーリング海峡まで行われています。このエリアだけで170万頭のトナカイが飼われています。北スカンディナヴィア半島に55万頭です。私が住んでいるエリアには10万頭います。世界の陸地の15パーセントがトナカイの放牧地とされています。トナカイの放牧をしている人数は50000人いると推定されています。
ノルウェーの北側のエリアでは、大気中核実験の時代に放射能が雨とともに大地に降りてきました。北のサーミは60年代から放射能の影響を受けていたと言われています。また、トナカイを飼っているサーミたちは、一般のノルウェー人よりも多く放射能を取り込んでいると言われています。冬季のトナカイの主な餌は苔になります。苔は3~5cmの高さまで生育するのに15~20年かかります。苔は大気中から養分を取り込んで成長するために、結果的に(核実験の時に大気中に含まれていた)放射能をたくさん取り込んだのです。そして、このことが、苔に含まれる放射性物質量が多いことに繋がりました。
1986年の春のチェルノブイリ原発事故の後、その後毎日使われるようになる新たな言葉を学びました。それが「ベクレル」と「チェルノブイリ」です。1986年の春、私たちの飼っているトナカイは1キログラムあたり3万ベクレルの放射能が検出されました。トナカの食べる苔からは1キログラムあたり18万ベクレル検出されました。ベクレルは、匂いもせず、見えることもありません。味もしないので、機械でしか測定できません。重大なことが起きたのはすぐにわかりました。私たちは実際に放射能の降下物に影響を受けていたのです。
政府はチェルノブイリに影響を受けた人たちに経済的負担を負わせないと宣言しました。また、5年後には元に戻るだろうと言いました。ただ、ほかの専門家はすべてが普通に戻るには、30年はかかるかもしれないとも言いました。政府は、癌の確率が高くなるかもしれないとも言いました。放射能の健康への影響は、1日に1本のタバコを吸うのと同じくらいだろうと言いました。もしかしたら、提供された情報は、政府の推測も入っていたのではないかとも思いました。
当時、将来について疑問が多く出てきました。トナカイの放牧を止めるべきではないかとも考えました。その場合は、何をして生活していいのか、と思いました。何を食べればいいのか、どのくらい放射能の影響を受けているのか、長年たってから深刻な影響が現れてくるのかもしれません。そして、政府は本当のことを言っているのか。
私たちは、トナカイを主食にしています。様々な調理方法があります。煮たり、焼いたり、燻製にしたり、干したりもします。チェルノブイリ事故の後、政府からは食事に関するガイドラインも出されました。私たちが食べるトナカイは、できれば1キログラムあたり600ベクレル以下に抑えることを助言されました。その基準を保つのは大変難しいとすぐにわかりました。トナカイの体内にある放射性物質の生物学的半減期はおよそ21日です。つまり12,000ベクレルから600ベクレルにするには、4~5回の半減期が必要になります。基準内に保つには、80から100日の期間クリーンフィード(放射性物質が含まれない餌を与えること)が必要となりました。ベリーや魚も放射能の影響を大きく受けました。ベリーや魚、ハーブや野生の肉はできるだけ食べないことも勧められました。
ヘラジカのベクレル値は比較的低かったのですが、猟の許可は我々の先祖の代にノルウェー人の開拓者に譲り渡されてしまっていました。トナカイ放牧をしている私たちへ、体がどれだけ放射能の影響を受けているのか、政府によってホールボディカウンターでの測定が行われ始めました。ベクレルフリーの食品を買うための補助金も出されました。
最初の春は、1キログラム当たり6000ベクレル以上のトナカイ肉はすべて処分されました。次の春は、6000ベクレル以上のものはクリーンフィードが必要だと政府から要求されました。このクリーンフィードをするための建物を作ったのですが、(建物への補償はあったものの)建てるための労力に対する補償はありませんでした。私たちのトナカイの放牧グループは、政府と補償のために常に掛け合っていました。隣国スウェーデンでは、ノルウェーとは異なる対策が取られ、基準値も違っていました。スウェーデンでもノルウェーでも同じ肉からは同じベクレル値が検出されることが普通は予測されることですが、違うベクレル値が検出された場合は、それは、機械の校正が違うからだと説明されました。
1986年以前に冷凍されたトナカイの肉からもベクレルは検出されました。政府はようやくその事実を認め、60年代70年代から(大気中核実験時代の放射性降下物を原因として)トナカイ肉にベクレルが入っていたと認めました。チェルノブイリ事故から2~30年以上前から放射能が入ったトナカイ肉を、私たちは食べ続けていたのです。
親戚や知り合いや友人などを亡くすのは、すべての人が経験することです。今の所、政府は南サーミ族に発癌率の上昇は認められないと言っています。しかし、私たちは小さなグループですが、多くの人たちが癌と戦っているような気がします。この理由は、放射能に関連するのではないかと思ってしまいます。政府からは、そうであると返事はされていません。
それぞれの年によってベクレルの数値は違いますので、専門家は予測をすることはできません。屠殺作業は、ベクレルのレベルに合わせていかなくてはいけません。クリーンフィードにもなれてきました。それにかかる追加の労力への政府からの補償はされません。
ベリーや魚などの調理方法は、世代を超えて伝えていく必要があるのですが、このままでは2~3世代先にはノウハウが廃れてしまうのではないかと思います。私の子供は人生の中でずっとベクレルに対する補償と共に暮らして来ました。次の世代も同じでしょう。トナカイの肉が600ベクレルを下回るには、長い年月がかかると思います。むしろ、その状況にたどり着くのは、可能なのかと思います。現在、トナカイの肉は、3000ベクレルを下回るかどうかというレベルです。
チェルノブイリ事故直後に疑問に思っていたいくつかのことに答えは見えて来ました。私たちはトナカイの放牧で生計を立てることは止めていません。政府の支援を受けて、トナカイを飼っています。今もトナカイの肉を食べていますし、昔と同じように美味しいです。我々の次の世代、つまり我々の未来ということでもありますが、政府が次の世代にあまり関心を払っていないように見えています。放牧をしている大人に関しては放射能を測定したり、食品の調理法の助言をしていますが、親として食材についての様々な対策は子供達にちゃんと効果があったかの説明は受けていないし、その説明はされていません。
ですが、コミュニケーションはよくなっていますし、私たちの組織は常に政府と掛け合っています。政府や専門家への不信感はありません。
(2013年3月第5回、2014年5月第8回ダイアログセミナー発表)
ネイラ・ヨーマさんの、政府と専門家への不信感がないというコメントは、会場に驚きを与えたようです。その後に質問がありました。
先ほど、専門家の方とのコミュニケーションがスムーズに言っていると仰っていたのですが、ノルウェーではどんなコミュニケーションをして信頼を得ているのか教えていただきたいです。
それに対する答えは次のようなものでした。
ネイラ・ヨーマさん:私たちサーミは、ずっと国と交渉してきました。国が提案してきたこともありますし、私たちの提案が受け入れられたこともありました。政府の最初の頃の基準は疑わしいと思いましたが、ほかに情報源はありませんでした。いちばん大切だったのは、私たちと政府の間の協力です。政府とは常に掛け合っていました。そして、私はサーミのグループのリーダーでした。国会への直接アクセスすることもできました。大きな責任感を持って対応に当たりました。
ノルウェー放射線防護庁のラブランス・ステクルードさんが補足しました。
ラブラス・ステクルードさん:ノルウェーでも最初は「インフォメーション・クライシス(情報の危機)」と呼ばれる大きな混乱がありました。私たちはコミュニケーションを続けることで改善をしてきました。信頼を作ってゆくには、コミュニケーションをするしかありません。また、ノルウェーは国民の数が少なく、住民規模が小さかったこともあると思います。住民から行政への距離が非常に近いのです。
それに対して、会場の福島からの参加者からは次のような指摘がありました。
ノルウェーのサーミ地域から来られたヨーマさんは、政府をあまり非難する気持ちにはなっておられない。これは自分の国で起きた事故ではないからではないでしょうか。ノルウェーという国においては、行政も住民も等しく被害者であるから、どのようにその状況に対処していくのかという事において、感情的な問題はあまりないのかもしれない。それに対してわが国では、その意味では比較出来ない状況が起こっている。
同じ原子力災害を経験した他国の状況を直接聞くことは、自分たちのおかれている状況を比較し、相対的に考えることに繋がったように見えます。
ネイラ・ヨーマさんの話の中では、まわりの人たちの癌の増加にまつわる放射能の健康影響について、政府や専門家への説明に対して懐疑的な見方もなされています。これについては、ノルウェー政府では継続的な調査を行なっているが影響は確認できていないと言っています。どのように受け取られるかは人それぞれですが、そのまま掲載することにしました。同時にヨーマさんは、ダイアログを聞いた上での最後の感想の時に、こんな風にも言っています。
ヨーマさん:私はスクーターに乗るときはヘルメットを被ります。車に乗るときはシートベルトを締めます。ある程度健康的な生活は送っていますが、アルコールは飲みます。私は、自分に対して大変満足しています。これをできる自分は偉いと褒めています。同時に明日喜べることをいつも探しています。ここから帰った後に、魚を釣ることをとても楽しみにしています。1年楽しみにしていることです。春には最初に出てきた植物の芽を食事に使います。夏にはベリーを食べるのが楽しみです。一年中常に楽しみがあります。ですから、放射能についてはあまり重きをおいていません。放射能は安全ではなく、避けるべきだとわかっていますが、それに対する対策はずっとしてきて、本当に私は頑張ってきたと褒めています。
皆さんは、ヨーマさんのこの言葉をどんな風に受け止められるでしょうか。原発事故によって放出された放射性物質は、私たちの生活にも大きな影響を与えました。それによって失ったものもありました。苦労も続いています。けれど、そんななかでも、自分自身が自分の人生の主人公であることはできるし、主人公であることを取り戻すことはできる、ヨーマさんはそう言っているようにも感じられます。
もうひとり、ノルウェーからは自分が人生の主人公であることを取り戻した話を聞くことができました。チーズ生産者のハプネスさんです。
すべての物語に始めと終わりがありますが、今日は終わりから始めたいと思います。つまり現在の状況の説明です。私の物語がハッピーエンドかどうか、それを確認するために、私が作っている20種類のチーズのうちの4種類を持って来ました。実際に体験して、私の物語が本当に成功なのかどうか皆様のご意見を聞かせていただきたいと思います。(※会場でハプネスさんが作ったチーズが配られました。)
1981年に、私は母から実家である農場を受け継ぎました。1984年に長女が生まれました。その時に、相続した小さな農場で生計を立てることの大変さを実感しました。土地や畑や家畜を管理する重い責任を実感したのです。そこから物語は始まりました。
農場の天然資源には、夏の山の放牧場や冬のヤギの餌を収穫する7.8ヘクタールの畑もあります。1984年には、朝晩125頭のヤギを搾乳していました。そのヤギの乳からノルウェーの伝統的な茶色いヤギチーズを作っていました。農場はノルウェー北部の山の奥にあります。北極の気候や不便な場所、農業の所得の低さは、農家の暮らしを大変にしています。利益のあまりない事業をするために、大変な労力と苦労が必要があります。
私の家族は四世代以上前から、山で生活をしてきました。その伝統を守るためにできる限りの努力をすることは覚悟しています。チェルノブイリ事故の前には、住んでいる場所はとても安全だと思っていました。農場はノルウェーで最も美しい場所と言われているところの入り口にあります。元々の自然のまま、そして変化に富んでいる国有林です。世界で最も純粋と言われる大自然の荒野が広がっています。自然と調和して暮らせることを大変幸せだと感じますし、のびのびとした気持ちになります。
1984年、私は若い父親として、次の世代を育てるのに素晴らしい場所だと思っていました。1986年3月7日に次女のインゲルが生まれました。当然のことながら、長女が生まれたときと同じように喜びました。しかし1986年4月26日にウクライナのチェルノブイリにある原発で爆発があって、広い範囲に放射能が拡散しました。ウクライナで起こった事故の起きた場所から何千キロも離れているにもかかわらず、天気と風向きの不運な条件で、私たちの地下水は放射能に汚染されました。住む場所として安全ではない場所となってしまいました。
政府も私たちもそのことが起きる事態は全く想定しておらず、そのための覚悟もできていませんでした。当時、放射能に対する知識はとても限られていて、新しい脅威は深刻で知識もなかったため、学ばなくてはならないことは多くありました。私は高校で理科を履修していたため、放射能を測る単位としてのベクレルも知っていましたし、物理的半減期についても知っていました。癌の確率が高まることも知っていました。当時政府から与えられた様々な情報を受け取りました。内容は多くありましたが、確定的な情報はなかったため、生まれたばかりの子を持つ父親としてはとても心配しました。
私たちが普段食べていた山魚にも放射能が入っていました。自然から採れたものも測りましたし、インゲルに与えていた母乳も測定しました。将来のことは非常に心配していましたし、当時は同時に1985年に起きた災害への対応もありました。これからどうすればいいのか不安でした。
ひとつの選択肢として、毛皮事業に業種転換することもできました。政府はそれを勧めましたし、そのための補償やガイダンスをするとも伝えられました。政府によると毛皮事業は、収益をあげられる事業ですし、食料品に使うわけでもないので、放射能の影響はないということでした。
一方、私の意見は逆で、毛皮生産はあまり利益がないと思っていました。動物の餌は購入しなくてはなりませんし、年によって価格が変動するので、事業は安定しないと思いました。政府の勧めとガイダンスによって事業を変更した人もいましたが、私はその案は採用しませんでした。
もうひとつの選択肢は農場経営を諦め、そこから離れて別の場所で生活することでした。まだ農場に住んでいた私の母は、絶対に住み続けたいと思っていました。ノルウェーでは農場に住むと、施設を経営する義務があります。農場を売る時には、必ずその条件を呑める人を見つけなくてはならないので、その可能性は諦めました。可能性がないと思ったので、真剣に検討はしませんでした。
1986年の夏のうちに、私たちが育てていたヤギの放射線量は高く、茶色いヤギチーズの生産を中止しました。乳製品業者は、必ず自分で作ったヤギ乳を受け取らなくてはならない義務がありました。ノルウェーでの農家連盟の制度では、乳製品業者は、その地域に住んでいるすべての農業者の乳は受け取らねばならず、それに対して支払いをする義務があります。農家は供出しなくてはならなかったのです。年ごとに、ヤギ乳の放射能レベルは下がってきましたが、それにもかかわらず、乳製品業者が私たちの生産したヤギ乳を受け取ることは再開していません。
物語を続ける前に、茶色いヤギチーズの説明をしたいと思います。このチーズは、最初にヤギ乳をじっくり時間をかけて煮込見ます。そうすると、乳糖がキャラメルされて茶色くなります。チーズは甘くて、少し癖がありますが、ノルウェーの食卓には欠かせない食品です。外国に住んでいるノルウェー人たちは、そのチーズが手に入らないと恋しく思います。それほど、ノルウェー人にとっては大切な食品です。そのヤギのチーズを作る時、長い時間煮込むとだんだん水分が飛んでいき、量は減っていきますが、そのプロセスで放射能も濃縮されて行くのです。だから、ノルウェーの北部でヤギ乳チーズは作らないようにと定められました。
どうすればいいものか、本当に迷っていましたが、私たちは結局農業で生活することに決めました。その選択は大変な苦労になると知っていましたし、もう少し楽な選択を選べばよかったと、時には思いました。私たちが作っていたヤギ乳は、乳製品業者には受け取ってもらえないし、受け取ってもチーズにも使われず、廃棄物として扱われました。私が作っていたヤギ乳は人間の食材に使われず、動物の餌として使われていました。それでも私は頑張って美味しいものを作ろうという気持ちを持ち続けました。
家族で話し合いをし、1989年にチーズを作る工場を農場に建てました。1990年頃からチーズを作り始めました。私のひいお爺さんは大工をやっていましたので、地域の教会など多くの建物を建てました。彼はとても評価され、その褒賞として住み続けるための農場をもらいました。そこにヤギを一頭もらい、そこからヤギを飼う物語が始まったのです。
チーズを作る知識は、世代をまたいで培ってきました。私たちは小さい時に母と祖母と一緒にヤギチーズを作っていました。たった数頭のヤギから作ったので小さなチーズ工房だったのですが、幼い少年としてはとても刺激的な経験でした。増設が認められたチーズ工場は、様々な設備に投資する必要がありました。新しいチーズの商品を開発しなくてはなりませんでした。販売品として認められるために様々な工夫も必要でした。放射能に対する対策は様々なことをやりましたが、多くの費用もかかりました。
それまでヤギを飼っていただけなので、生産業者、販売業者として新しいことも学ぶ必要がありました。私の事業企画に対して支持してくれた人は誰もいませんでした。みんなに反対されて、みんなが使っていた乳製品業者以外のところでチーズを作ることは裏切り者だとも言われ、大変でした。けれど、私には、強い自信もありました。過剰だったかもしれませんが、皆の反対を無視して、自分を信じました。周りにはうまく行くと信じている人は誰もいませんでしたが、そのおかげで絶対成功させないといけない、と強い気持ちになりました。世界一のチーズを作るぞ、と決心をして、家族を養う収入を得るためにも頑張りました。
その後、1991年と1994年にはさらに2人の娘が生まれました。ベンチャー企業を作るのは本当に大変で、正直にいえば、お勧めはできませんが、しかし、その一方で退屈する日はありません。私の仕事は、仕事というよりライフスタイルで、毎日、その仕事をしています。刺激が多く、魅力の多い事業です。そのおかげで、今日2014年5月には、日本まで来ることができました。
放射能が高い食材は販売できません。私たちが住んでいる地域で、放射能が高いとわかった時に、様々な対策はされましたが、植物が放射能を吸収しないように畑全部を掘り返して、子供達は肉や乳牛の放射能レベルを下げるために様々な仕事をやりました。飼っていた放牧地は放射能が高いので、低いところへ移動しないといけないと言われましたが、結局あまり変わりませんでしたし、餌は買わなくてはなりませんでした。私は自分自身で放射能レベルを測り、モニタリングしました。
しかし、プルシアンブルー(家畜の体内への放射線摂取を抑えるための薬剤)を長い間与え続けると、動物たちが嫌がってしまい、搾乳量が減ってしまいます。茶色いチーズの放射能レベルが高いときは、捨てるしかありませんでした。食肉にするためには、家畜に長い間クリーンフィード(放射性物質の含まれない飼料)を与え、ブルシアンブルーを与えなくてはなりませんが、それは追加費用が必要となります。
チーズ工場を始めたときは、まずは、政府から与えられた義務、乳製品業者に乳を納入することをやめられるよう申請しました。その申請は断られました。政府の制度では、農家連盟を通じてすべての乳を買い取る代わりに、経済的な補償を与えたりする制度になっているのです。さっき言ったように、乳製品業者は農家の乳を受け取り、そして農家たちは自分で作っている乳を納入するのです。
チーズ工程の知識はヨーロッパの様々な地域で学びました。その関係で、フランス人のチーズ生産者には大変お世話になり、感謝をしています。自分で試したり失敗したりでいろんなことを学べました。
フランス人のチーズ生産者の仲間に言われたのは、豚を飼えば作ったものすべてを捨てなくてならなくなったとしても、美味しいベーコンは作れる。だから、チーズが販売できなかったとしても、美味しいベーコンは間違いなく作れるわけだから、そう励まされました。
食料品を作るよりさらに大切なのは、マーケットに出かけてお客さんの顔を直接見ることです。お客さんとの会話は販売のためだけでなく、様々な知識と話題を得るために、とても重要です。高い価格になると、その値段で買ってもらうためには、食料品生産者がどれほど苦労しているのかを伝える必要もあります。私は、お客さんとの対話はいろいろな情報を得られますし、食料品生産者として自分の知識も得られるので、もっと美味しいものが作れるチャンスだと思っています。日々の仕事で疲れているチーズ生産者としては、お客さんとの会話は元気になるための栄養補給剤みたいなものです。
2004年と2005年にチーズ工場を拡張しました。そのおかげで、周りのヤギを飼っていた農場にも利益がありました。周りの飼っていたヤギ乳も受け取れるようになったのです。これから発展できる最後の手段として考えているのは、レストランを作って、自分の住む地域を観光地として紹介することです。私たちの地域は非常に自然の美しいところですし、地域の食文化を紹介して、素晴らしい観光地になると思います。私の小さな王国にお客様をお迎えできることは大歓迎です。ぜひいらしてください。
(2014年5月第8回ダイアログセミナー発表より)
代々伝えられた土地と暮らしに対する愛着は、日本でもノルウェーでも同じようでした。そして、ハプネスさんのお話には、会場からこんな感想が寄せられました。
印象的だなぁと思ったのは、「私のチーズはこれくらい安全です」と話はあまりしないで、「私のチーズは美味しいです」と言うところから話に入られたことです。自分はすっと検査のお手伝いをしていますが、NDです、検出しません、と言うのは、マイナスをゼロに近づけるための努力です。それも必要ではあるのですが、ゼロをプラスに変えることにも力を注がなければいけないんだろうな、と思います。
このダイアログの後、2014年の9月には、福島からもハプネスさんやヨーマさんの農場を訪れ、実際にチーズ工場の見学をして、レストランでの食事を味わいました。いちばん近い地方都市からも、車で5時間近く、信号も民家もほとんどない山道を走り続け、ようやくハプネスさんの「王国」にたどり着きました。美しく清潔に管理されたそこは、それでいてアットホームでハプネスさんのレストランの料理もとても美味しくいただきました。奥さんの歌も披露され、帰りには茶色いヤギチーズを購入して帰りました。
その時の経験のことも、ダイアログで報告されました。
(2014年12月6日第10回ダイアログセミナー)
「セッション2:発表 チェルノブイリ事故の影響を受けたノルウェーの地域への訪問」
ノルウェーの訪問先でも、政府と住民の信頼関係について繰り返し話を聞くことになりました。政府への不信に揺らぐ日本、福島から訪れた一堂にとっては、ノルウェー政府と国民の信頼関係は驚きであったようで、そのことは感想としても触れられました。
ノルウェーでは、住民との対話を重視しており、行く先々で、国への信頼、行政への信頼という言葉を多く聞きました。これは行政と住民の対話でのやり取りが成功しており、信頼関係が築かれていることを確信させるものでした。特に放射線防護庁等の国の職員との信頼関係が充実していることが強く印象に残っています。(2014年12月)
訪問先で、国が大丈夫と言ってる、政府を信頼してるといったお話を何度も聞いたところです。これはさっき話ありましたように行政の方と住民の人が対話を重ねた結果なんだろうと感じます。チェルノブイリの原子力災害の責任が自国にないということも背景にあるのかもしれませんが、これはすごいことだなと感じました。(2014年12月)
ノルウェーやその隣国スウェーデンは、もともと世界の中でも、政府や行政に対する信頼度が高い国として知られています。隣国スウェーデンに住んで、ノルウェー視察にも通訳お手伝いとして同行してくれた佐藤吉宗さんが、ダイアログでスウェーデンの事例を紹介してくれています。
(2014年12月第10回ダイアログセミナー「チェルノブイリ事故で被災したスウェーデン 政府に対する信頼が高いのはなぜか?」 )
制度としては、ノルウェーも隣国スウェーデンと似ているとのことですので、佐藤さんの発表に書かれたことを当てはめて考えてみたいと思います。原発事故の影響があったスウェーデンでも、ノルウェー同様に政府の対応へは信頼感がありました。それは、日本からしてみると不思議にも思えます。佐藤さんの発表の中では、「逆に、どういった行為が政治・行政に対する信頼を失墜させるのか?」という問いから考えてみます。
- ・現実に合わない卓上の空論の押し付け。
- ・行政の担当者と話をしても分かってもらえない。話が伝わらない。
- ・約束したことを守らない。言うことが二転三転する。
- ・行政の決定過程が不透明。誰がどうしてそれを決定したのか明らかではない。
- ・説明責任が果たされない。責任者が出てこない。
佐藤さんは、透明性が確保され、権限や裁量が現場に確保されているスウェーデン・ノルウェーの行政ではこのような問題が起きにくいことを指摘しました。
ノルウェーでも、ラブランスさんが言っていたように、事故直後に動揺がなかったわけではありません。それは、「情報の危機」であるだけでなく、「行政の危機」とも言われました。日本と違ったのは、その危機に直面して、行政の対応が変わったことでした。被災地から離れた首都のオスロで一方的に対応を決めることを止め、ヨーマさんたちのような被災状況に直面している地元の人たちと話し合いをし、その上で対応を一緒に考えるように変化をさせたのでした。現場で放射線防護庁の人が地元の人と話し合って考えた対策が、そのまま実現されることはごく普通に行われるようになりました。これは、現場への権限や裁量が確保されている制度が支えていましたし、またそこで「不公平感」を呼び起こさないための透明性と国民の中での信頼感があったことが大きいように思えます。ノルウェーは、国民の団結力が高い国として知られているのです。実際に訪問した感想としても、次のようなものがありました。
ノルウェーの人達の考え方は、非常に率直で、合理的な発想をされるんですね。それでいてすごく思いやりがあるんです。人と人との付き合いというのをものすごく大切にされる、きちんとお互いに向き合って話をしようとする、そういう姿勢は非常にいいなと思ったので、参考にさせてもらっています。(2014年12月)
それにしても、ノルウェーの人たちがなぜこんなに福島の応援をしてくれたのか、不思議に思われる方もいるかもしれません。原子力災害の被災者という同じ経験をしている人に対する共感と同時に、自分たちの経験を語り伝えたい、そんな願いもあったのかもしれません。
ノルウェーとその後、ベラルーシも2年前に行ってきたんです。そこで同じこと言われたんです。「私たちの経験を福島の役に立ててください」と。それを違う場所で、何人もの方に同じように言われたんです。そのことがとても印象に残っています。「この人たちはなんでそんな風に思うのかなあ」というのが疑問でもあったのですけども、考えてみると、そう言われる方たちはご自分たちがすごく苦労してきているんです。今はノルウェーの人たちもハッピーにしていますけども、当時は大変な思いはされてきていて、その苦労した経験を何かに活かしてほしいという想いは強く持っているんだろうなと感じました。ですから、ベラルーシやノルウェーの被災地域の方達は、福島の状況をとても気にかけていて、頑張れという想いでいてくれているのをすごく感じてきました。(2014年12月)
原子力災害は、原子力技術という特殊な技術によって起きた災害で、被災状況がわかりにくく、また、ほかの災害に比べ経験している人が少ないため、その経験を共有することは簡単ではありません。それは、ノルウェーでも例外ではありません。福島からノルウェー訪問の最終日には、被災地ではなく首都のオスロの見学を行いました。その時のガイドをしてくれたのは、オスロに住んで20年になるという日本人女性でした。
最終日のガイドさんの言ったことが印象に残っています。彼女はオスロに住んで長いようでしたが、常に、放射能に関することは山間部やオスロから遠く離れた地域に限ったことのように話していました。約2、30年経つと誰しもがそのような認識になるのではないかと少し恐ろしく思えましたし、一方で国や放射能の影響を強く受けた地域の人々の継続した放射能との戦いがノルウェーでも限られたものであると思うと、そのギャップに少し寂しさを感じました。ノルウェーの地でも、危惧されている被災地との温度差の進行は、日本でもとても切実な将来像であるということを実感しました。(2014年12月)
ヨーマさんやハプネスさんの話からわかるように、ノルウェーの被災地ではまだ対策が続けられています。一方、首都地域では、影響が残っていることでさえもう知らない人の方が多いと言うことです。ノルウェーでは、事故当初から風評被害はないとのことですから、そう言う意味では、災害の記憶が薄れるのは、悪いことばかりではないのかもしれません。ただ、自分たちの苦労した経験が、ほかの誰にも伝えられず、活かされず、ただ忘れられてしまうだけなのは、経験者にしてみれば、悲しみや悔しさを覚えるものであるかもしれません。
経験を分かち合うこと、それを次の世代に伝えること、そして、よりよい社会にしていくために役立てることは、被災地での対策が日常に溶け込み、生活が落ち着きを取り戻してきた時に、あらたに経験者の切なる願いとなるものであるようにも思えます。
私達はこれから50年、100年、もっと長いスパンで語り継いでいかなければ、私達の存在が忘れ去られてしまうんじゃないかと思います。3月11日、つらかった、悲しかっただけではなく、ここで選択をして生きる、ここで生きていくんだ、そう考えていく過程も話しながら、自分達はなぜここに生きているんだということを語りかけていく。そういった過程の中でも「過去ではない、今も災時が続いている」ということを語り継いでいかなければいけないんじゃないか。それは自分たちの子供が大人になったときに、自分の子供に「おじいちゃんやおばあちゃんがこんなこと言っていたよね、この原子力災害も津波も地震もあったんだよね。だけど、あの時みんなそれぞれの選択をしてこうやって生きてきたんだ、生きてゆくんだ」そう語れるように。(2014年5月)
私たちは30年後、50年後の未来の子供達に語り継ぐ物語を紡げているでしょうか。チェルノブイリ事故から30年近くを経ているノルウェーの事例を参考にしながら、震災から10年が経過した今、問い直してみる時期なのかもしれません。