アストリッド・リーランドさんには、福島第一原発事故直後の2011年から2018年まで、何度も福島ダイアログに関わっていただきました。ノルウェー人から見た、福島ダイアログの印象や、震災後の課題と解決策。また、福島ダイアログを行う意義についてもまとめていただきました。
アストリッド・リーランドさんの紹介
ノルウェー放射線核安全庁緊急準備局局長。核化学者。20年に渡り、チェルノブイリ事故後の人間と環境への放射能汚染とその影響について従事。数多くのEUのプロジェクトにも参加。福島第一原発事故後も直後から福島へ関わり続けています。
本稿の一部は、ICRP年報第45巻第2号に掲載されたものです。
The Annals of the ICRP, Volume 45, Issue 2_suppl, December 2016, pp. 92-98, SAGE journals https://doi.org/10.1177/0146645316680582
1. ノルウェー人から概観したダイアログの印象
2011年から2018年まで、ノルウェー放射線防護局は幾度もダイアログに参加しました。そこでは、2011年3月に起きた福島第一原子力発電所事故によって、福島県の当局者や住民が直面した問題について深く学ぶ機会を得ることができました。
初期のダイアログでは、参加者の怒りや苛立ちが多く見受けられました。彼らの間には、当局への深刻な信頼の欠如と、正確な情報または十分な情報が得られていないという共通の感覚があったと思います。政府が十分な対応ができない中、一部の地元の専門家やボランティアは、独自の放射線測定や除染を始めました。このようなイニシアチブや、それがどのように住民に伝えられたかについて聞くことは興味深いことでした。
時が経つにつれて、ダイアログは様々なトピックと、様々な人たちの経験を扱っていきました。福島における原発事故の社会的な影響を反映しつつ、ダイアログの本質が、放射線だけの問題から、より幅広い内容へと変化していったということだと思います。それは、福島第一原子力発電所からの放射性降下物の影響だけでなく、住民たちのそれに対する多様な見解とニーズを学ぶための良い方法だったのではないでしょうか。
ダイアログの参加者の間では、問題の複雑性と解決の可能性への理解が深まっていきました。そして、知識が増え、地域がきれいになり、文化的・伝統的な活動が再開され、経験が他の人と共有されるにつれて、彼らの怒りや苛立ちは徐々に収まり、前向きな態度へと変化していったように思います。
2. 課題と解決策
日本の当局は、原発事故後の復旧・復興期の計画に欠いていました。これは、緩和策を講じるのに深刻な遅れを引き起こし、被災者との良好なコミュニケーションと関係性の欠如をもたらしました。放射線防護の教育を受けていなかった日本の公衆は、それが何であるかを学び、理解するのに苦労していたようでした。
自主避難を決めた人たちもいましたが、強制的に避難させられた人も多くいました。彼らには仮設住宅と補償が提供されましたが、これらの対応には代償を伴ないました。
1)仮設住宅
多くの人たちが以下に挙げるような経験をしており、ダイアログでは、彼らの見解や経験が共有されました。
以前は2~3世代の家族で一緒に住んでいましたが、原発事故後に提供された仮設住宅では狭かったため、そのような暮らしを続けることができなくなりました。その結果、祖父母が別の住宅またはアパートに移り住み、子どもや孫たちと別れて暮らすようになりました。現在建てられている復興公営住宅には、主に高齢者が住んでいます。スペースが限られているため、子どもや孫たちが泊まれるような部屋がなく、息が詰まりそうだと感じています。外に出るのを嫌がり、テレビを観たり、お茶を飲んだりして毎日を過ごしているため、体が弱ってしまいます。
母親と子どもが県外に避難し、自分だけ福島県に留まる父親もいて、家族はバラバラになってしまいました。家族全員で参加する学校行事のような伝統の多くが中止され、世代間の溝は広がりました。避難者の間では肥満、高血圧、不安などが増加し、彼らの健康状態は他の住民よりも悪化しています。
住民の健康状態の悪化を防ぐために、コミュニティ活動を行ったたくさんの住民がいました。例えば、伊達市の半澤隆宏氏は、非常に早い段階で地元での除染活動を始め、放射線の問題を一般の住民に説明しようとしました。福島県の港湾隣接地域の漁師達は、人々の交流と話し合いのためのクラブを設立ました。2016年、ある女性は友人と一緒に、高齢者の住民が運動、歌、手芸、正月のお祝いなどを行う社会的な交流の場を創りました。ある男性は、昔の卓球クラブの友人たちに再び連絡を取り、24時間の記念大会を開催しました。この他にも、困難な状況を乗り切ろうとしたたくさんのイニシアチブがあり、それらの経験はダイアログで共有されました。
2)補償の制度と住民の帰還
避難者は、物理的な財産と精神的な苦痛に対して賠償金を受けることができました。しかしながら、汚染の程度によって地域は区分けされ、地域によって住民が受け取れる賠償金の額は異なっていました。そのために、不平、不満、疑念などが生まれ、非常にデリケートで難しい状況になってしまいました。また、ある地域への避難指示が解除されても、帰還が安全でないと感じていたり、別の場所に新しい住処を見つけていたために、帰還を望まない住民もいました。しかしながら、避難指示の解除に伴い補償も停止されたために、彼らは、帰還を余儀なくされたと感じていました。 特に小さな子供がいる家庭にとってはそうでした。補償制度に対する不満は、住民が毎日の暮らしで感じている負担を増大させます。ダイアログの参加者の中には、すでに日々、限界に達していると感じていた人もいました。
一方で、帰還を熱望していて、当局による避難指示解除を待ちきれないという住民もいました。しかしながら、当局が必要な除染を実施していない、帰還後は補償が継続されないという不安を抱える他の住民は、そうした希望に否定的でした。
住民の大多数は帰還するかどうかを決めかねており、避難指示が解除された地域に帰還する住民の多くは高齢者です。地域の発展は若者にもかかっているため、これは将来への懸念を引き起こしています。2018年の南相馬ダイアログの参加者の1人は、小高区に多くの若者が戻る可能性は小さい、それでも、若者が戻ってくるように励まし続けなければいけませんし、諦めないとも語っていました。現状の正確で客観的な情報が、避難者や福島県外の人々にも伝えられなければいけません。別の参加者は、数年間カナダで過ごした後、南相馬に戻ってきましたが、彼女のカナダの知人たちは、南相馬が安全ではないと確信していたようです。
3)景観と経済活動の変化
津波と原発事故による避難の影響で、地域の景観は永久に変わってしまいました。多くの地域でビ浜辺がなくなり、海岸の近くに住む人もいなくなりました。海岸の堤防は以前よりも高く、広域に建設されました。
政府の農業に対する規制と避難指示によって、多くの農地が何年間も放置されてしまいました。そのような農地を回復させ、収穫するためには時間がかかります。ある参加者は、果樹園の手入れが3 年間できなかったために手に負えなくなり、全ての梨の木を伐採しなければいけませんでした。福島県には同様のケースがたくさんあります。さらに、避難指示解除地域に戻る住民の多くは高齢者です。また、福島の農産物は放射性物質で汚染されているという風評によって、福島産品は市場価格の大幅な下落に苦しんでいます。福島県の生産者は、収穫された米の全袋をスクリーニングするなど、食品の放射能検査や安全証明書の提供に多大な労力を費やしてきました。生産者の中には、有機栽培に目を向けたり、福島産の農作物を宣伝するためのフードフェアや、スーパーマーケットなどの小売業者との協力を通して、さまざまな地域での活動を行なっています。
一方で、多くの農地は、農作物の代わりに売電のためのソーラーパネルに変えられてしまいました。地域の除染作業による低レベルの放射性廃棄物の一時的な保管場所になっている農地もあります。これらは地域の景観を変えてしまっただけでなく、原発事故とその影響を、それを目にする住民に日常的に思い出せ続けます。
漁業もまた、価格の下落と福島の港に漁獲物を届ける漁師の減少という影響を受けています。生産者は、全ての漁獲物が放射性物質の許容レベルをはるかに下回ることを確認するために、しっかりとしたモニタリングプログラムを実施しています。しかし残念なことに、福島の食品の安全性に対して、依然として疑問を感じている消費者もいます。福島県の農業と漁業のために、モニタリングと正確な情報の発信などのコミュニケーションの取り組みは、今後も継続されていく必要があります。
4)文化や宗教などの伝統の変化
津波と原発事故によって、地域の文化や宗教に関わる活動の多くが中断されました。神社は津波で破壊され、放射能汚染によって人々が外に出ることに不安を感じたため、屋外での祭りは中止されました。また、山も汚染されたため、山に行って山菜やきのこを採り、近所の人たちと分けるという春と秋の活動ができなくなりました。そして、三世代の家族が集うような学校行事も中止となってしまいました。
ダイアログでは、文化的・伝統的な活動は徐々に再開されつつあるなかで、そのような活動の継続が地域の暮らしにとっていかに大切かが共有されました。原発事故の文化や伝統への影響は認識されにくいことがあります。しかしながら、ウクライナ、ベラルーシ、ノルウェー、そして日本での経験から、文化や伝統の価値を忘れてはいけないということがわかりました。つまり、日本人、ベラルーシ人、ノルウェー人であるということはどのような意味を持つのか、ということです。人々がアイデンティティ、尊厳、プライドを取り戻すために必要なものはなんでしょう。満ち足りた暮らしを送るには、人々には家や収入以上のものが必要です。だからこそ、原発事故の社会的影響の全体像を把握し、ダイアログのような、一般の人々が抱えている不安や希望を語りあい、自分たちの取り組みについて共有できる場から、学ぶことが重要だと思います。
3. ダイアログの意義
1)経験から学ぶ
原発事故の初期の経験やダイアログでの証言からわかったことは、他の人たちが原発事故を忘れてしまったり、政府が放射能汚染は「アンダーコントロール」だと言ったとしても、汚染地域の被災者の課題は依然として残っているということです。被災者は毎日の地域のコミュニティのなかで、以前の普通の生活を取り戻そうしたり、ほとんどの場合は、自分の未来に向けての新しい日常を作り上げようと苦闘している最中であり、それが彼らの現実です。多くの不確実性を含み、個人的な選択を迫られる、時間のかかる複雑なプロセスです。2018年の南相馬ダイアログで、ジャック・ロシャールは、原発事故後、家族、隣人、住民と政府の間での社会的な衝突が増えているという見解を示しました。
当局者はこの状況を理解した上で、復興に向けては多様な道があるということを認識するのが重要です。原発事故後のような状況においては、人によってニーズは異なり、絶対的な基準や、誰にでも効く万能薬のようなものはありません。当局者は、復興へのより良い道を見つけるために、他の国の経験や、専門家と住民の両方との対話から学ばなければなりません。
ダイアログの番外として、ノルウェー、ベラルーシ、日本の被災者間の訪問が実現しました。復興への道筋は、これら3ヵ国の間で大分異なっていますが、他者の経験から学ぶことは、新しい可能性を探り、自分自身の状況をより理解するために重要です。例えば、2012年、日本は食品中の放射性物質に関して、世界で最も厳しい基準を導入し、ごく少量しか消費されない野生のきのこや、他のマイナーな食べ物を含む全ての食品を対象としました。一方ノルウェーでは、サーミ族のトナカイの遊牧文化や産業を守るために、トナカイの肉の基準値を10倍に引き上げました。同時に、一般的なノルウェーの消費者にとって、トナカイの肉はマイナーな食品であり、彼らの年間の内部被ばく線量にほとんど影響はないことを周知しました。
2)住民と共に議論し、よく考えることの意義
ダイアログは私たちに、地域住民の力と真価を示してきました。彼らこそが、そのコミュニティの課題、可能性、リソース、長所が何であるかを知っている地域の専門家です。
外部専門家や当局の助けを借りて、被災地の住民に受け入れられる、彼らに合った対策を見つけることが可能です。そして、対策の実行にも住民が関与していくことが望ましいでしょう。ダイアログに積極的に参加してきた地元の当局者もいます。2018年の南相馬ダイアログで、南相馬市の田林副市長は、住民の懸念と、市の新しい政策の策定に積極的に反映させたいと思う、前向きな歩みを聞ける貴重な機会に感謝の意を示しました。
ダイアログのオープンで分かち合うスタイルは、原発事故の放射能汚染によって影響を受けた一般の人々が直面した問題を理解するのに、前例のない貢献をしました。日本にはオープンなディスカッションの伝統があまりありませんが、ダイアログは、出席者が複雑な問題に関する議論や深く考えることに参加するというユニークな可能性を生み出しました。悩みを分かち合うことで、個人の負担が軽減されます。特に女性は伝統的に孤独を感じている場合が多く、そのような機会に大いに感謝していました。
2018年の南相馬ダイアログの参加者たちは、このようなダイアログの意義にはっきりと言及していました。つまり、ダイアログは人々に、他の人と経験を共有し、彼らの証言を聞き内省し、視野を広げ、彼らの話や経験からインスピレーションを受けることができる可能性を与えました。それによって、人々は行動を起こし、過去だけでなく未来に焦点を向けることができます。また、時間が経つにつれて、焦点は放射線の問題から、文化、社会、経済に関する問題に移ってきていることも明らかです。
また、ダイアログが開催された市町村では、他の地域より前向きな展開が見られるということも、ある早い時期のダイアログで言われました。
4. 未来への希望
一連のダイアログを通して、福島の人たち、本当に多くの人たちの証言を聞いてきました。それぞれが興味深く、感動的で、インスピレーションを与えてくれるもので、挙げればキリがありません。私たちと経験を共有してくれた一人一人に感謝したいと思います。そして、ダイアログの中心となって尽力してきた安東量子さんには特に感謝しています。
福島には解決すべき問題はまだありますが、2011 年以降、住民は解決の道を見つけるための力を示し、前向きな展開が見られてきました。これこそが、未来への希望を与えてくれるものだと思います。
(日本語訳:児山洋平、監修:安東量子)