第25回福島ダイアログ『原子力災害後に「共に生きる」』が、2023年10月14日(土)、15日(日) に開催されました。
1日目は、現在も帰還困難区域が残る浪江町津島地区の特定再生復興拠点内を、津島の三瓶春江さんにご案内いただきました。
2日目は、双葉町産業交流センター大会議室にてダイアログを行いました。また、日英同時通訳付きで、ズーム配信も同時に行いました。
1日目
浪江駅に集合し、マイクロバスに乗車、津島支所(旧津島活性化センター)にて、ご案内いただく三瓶春江さんと合流しました。
長安寺
本堂は解体され更地となり、墓地のみが残る長安寺にご案内いただきました。現在は、福島市内に移転しておられるとのことです。避難の途中で亡くなられた檀家さんもいらっしゃるそうです。お身内は、津島に戻る目処が立たず、避難先から墓参りにめったに来られない津島のお墓に故人の骨だけを収めるのが忍びなく、移転先のお寺に預けられているとのお話を伺いました。「亡くなった後も、帰ることができない」のが現状、とのことです。
三瓶さんご自宅
三瓶さんのご自宅は、特定再生復興拠点内に入っているため、制度上は、希望すれば帰還することもできることになっています。しかし、現実は、住宅のあちこちが朽ち果て、とても住める状態ではなくなっていることに加え、長い間、管理ができなかったために山からの水が流れ込み、敷地は湿地のようになっていました。また、周辺は、足を踏み入れることができない帰還困難区域のままの場所も多く、近所にもほとんど誰もいません。
「政府に帰れると言われてもとても帰れるような環境ではない」、「自分たちが求めている条件と、政府の帰れますという条件があまりに違いすぎる」、「政府から選択肢は提示されるものの、どれも住民はなにひとつ望んでいない選択肢ばかりだ」、という言葉の意味が、ご自宅を拝見してよくわかりました。
「こうして荒れてしまった自宅を皆さんにお見せするのに、葛藤がないわけではない。本当は、片付いたきれいな状態の自宅をお見せしたかった」と語られた言葉が胸に刺さりました。
旧津島支所・津島街中
マイクロバスのなかから、避難前の街のご様子や、震災時の避難の状況などを伺いました。かつて住宅があった場所も、現在は、ほとんどすべてが解体され、更地になっています。旧津島支所前では、旧津島村の成り立ちについても伺いました。戦後、多くの開拓者が定住し、家族のように助け合って暮らしてきたとのことでした。
旧津島中学校
閉校され、現在は、グラウンドは除染・解体工事作業の集合場所となっています。工事用の地図で、赤く塗られた部分が、津島町のなかで避難指示が解除された場所になります。津島の全体の5%しか住めるようになっていないのが、現状です。
放射線量
視察の際には、線量計を帯同し、それぞれの地点での放射線量を確認しました。三瓶さんのご自宅を除いては、除染が行われています。(空間線量 HORIBA-RADI;積算線量 DOSE-mini)
・積算線量は浪江駅を起点に、その日の行動の累計の積算線量を示しています。
2日め
双葉町産業交流センターで、午前中はプレゼンテーション、午後はダイアログが行われました。午前中のプレゼンテーションは、双葉町、大熊町、葛尾村の発表者から、それぞれの活動の紹介がありました。研究者から、新潟イタイイタイ病の修復プロセス例から、信頼回復がどのように行われたかの事例紹介がありました。また、海外からはオンラインでチェルノブイリ事故で影響を受けたイギリスの羊農家の事例の紹介がありました。発表の詳細については、資料と動画を掲載してありますので、ご覧ください。
午後は、海外からのオンライン参加を含めて11名によるダイアログが行われました。
ダイアログでは、IDPAメソッドという方法が使われ、司会からの一つの質問に対して、各参加者が割り当てられた同じ時間だけ、自分の意見を述べていきます。全員が答え終えたら、2回目は、他の人の意見を聞いてどう思ったかを、同じように順に答えます。直接の議論は行わず、他の参加者の発言を否定したり批判しないことがルールになっています。
質問は、福島の被災地でよりよく生きるための条件と手段はなにか? でした。
今回の参加者は、避難指示が部分的に解除された双葉町・大熊町、全域解除された葛尾村・南相馬市小高町、県外から復興にかかわるために移住してきた富岡在住の方、福島市から京都へ自主避難中の方、研究や支援活動で福島にかかわったことのある研究者に加え、海外からの専門家という多彩な組み合わせとなりました。それぞれの状況の違いを反映して、それぞれの回答も大きく異なるものでした。現状に前向きのアクションを起こす人がいる一方、取り残されていると感じている人もいて、回答の最中にも、それぞれの状況の違いに、参加者が互いに驚いている様子も感じられました。
それぞれの置かれた環境によって、状況が大きく違うことが、可視化され、実感を持って感じられる機会となりました。
同時に、状況や考えを共有することの難しさも改めて実感されました。
一方で、共有の難しさそのものが福島の浜通りの被災地の状況をそのまま反映しているとも言え、ダイアログで見られた戸惑いは、現実を映し出したものであったと思います。
印象的であったのは共有することの難しさと同時に、だからこそ、共有する機会を持つことの重要さを多くの人が指摘していたことです。違う立場、環境の人と人とがつながり、それぞれの状況を共有し、理解し合おうと努めることの希望と可能性を感じられる機会ともなりました。
ダイアログのように、広く様々な立場の人たちが集まる場を続ける必要性を改めて感じました。
今回の会場運営にあたっては、福島大学地域未来デザインセンターの皆さんに大変お世話になりました。おかげさまでつつがなく進行することができました。
また、津島をご案内いただいた三瓶春江さん、オンライン配信と同時通訳の資金支援をしてくださったフランスIRSNにも御礼申し上げます。