文章:安東量子
原発事故のあとに、とてもよく聞かれるようになった言葉に「分断」があります。「分断」と言われると、「なるほど、分断。ふむふむ」と、なんとなくそれだけで納得してしまいそうになります。けれど、実際にどういう分断があったのか、なにが原因になったのか、直面した人はどんな風に感じていたのかは、その言葉だけでは見えてこないものがあります。
ここでは、ダイアログで語られた内容をもとに、3回に分けて「分断」の姿をひもといていきたいと思います。
ダイアログから見える分断(1)
「分断」を象徴するものとして、最初の頃のダイアログでよく話題に上ったエピソードがあります。それは、〈ふたつの食卓〉です。 世代によって放射能に対するリスク認識が異なるため、3世代同居も少なくない福島県内で、一つの家庭の中に、同じ食材を使った料理を食べられなくなってしまい、祖父母世代とその子供、孫とで食事を別々に用意しなくてはならない状況のことをあらわした言葉でした。
放射能は、大人よりも子供への影響の方が大きいと言われていましたから、ほとんどの場合、子供に対してはリスクを避ける方向の行動が選択されました。福島県の地元の食材や、家庭で栽培する野菜などの食品は、子供には食べさせない、外では遊ばせない、というものです。一方、大人は、年齢が高くなればなるほど、リスクよりも元の生活を好む方向性が強くなりました。
「オレらはもう先も長くないから、好きなもの食べっぺ。」
事故直後しばらくは、高齢者からはこうした言葉がよく聞かれました。言葉だけ見れば、開き直りのようにも聞こえますが、悲しみと悔しさがともなった言葉でもありました。
リスク認識が、同居家族といった身近な関係でも大きく違ってしまうことが原因で、人間関係も悪くなりました。ダイアログのなかで語られたエピソードです。
若いお父さんお母さんは、子供には地元の食材を食べさせたくないと思っている。でも、お祖父ちゃんお祖母ちゃんは、自分たちの育てた野菜が美味しいし、食べたいから、食べる。それを見ていた子供は、美味しそうだからやっぱりたべるという。そこでお父さんお母さんの気遣いは台無しになるし、家庭の中で争いにもなってしまう。(2013年11月)
異なっていたのは世代だけではありません。ご夫婦で考え方が違う家庭もありました。
私は子供には食べさせたくないのだけれど、夫の考えは違う。夫からは神経質だと言われるのだけれど、自分はきちんと自分で安心と確認できたものを選んで食べさせたい。(2012年7月)
こうした衝突は、時間の経過とともに聞かれることは少なくなって来ましたが、事故後の数年間は、誰でも身近に耳にしたり、実際に経験している日常的な光景でした。なぜ、こんなことになってしまったのか。冒頭で書いたように、その理由は、「リスク感覚の違い」で片付けられてしまいがちです。ここでは、なぜこうした「リスク感覚の違い」が生じてしまったのか、ダイアログの会話から掘り下げて探ってみたいと思います。
リスク感覚の違いがとりわけ深刻なものとして取り上げられたのは、食品の話題、それから教育の話題になった時でした。ダイアログでは、食品も教育も、毎回のように話題には上っていましたが、とりわけ2012年7月はテーマそのものが、ずばり「食品」でした。また、教育をテーマとした集まりは、2012年3月、2014年5月に開かれました。会場には、さまざまな立場の人たちが顔を合わせて語り合いました。
事故からすぐの時期に、教育と食品をめぐる放射線基準について大きな動きがありました。ひとつめは、2011年4月に出された学校再開の基準です。事故前には、放射線量の基準はほとんどの場合で存在せず、事故のあとは、いったいどの数値までなら日常生活を続けていいのか、ひとつひとつ定めていかなくてはいけませんでした。とりわけ、事故が起きた時期は年度が終わり、新学年を目前としていた年度がわりの時期であったため、震災と事故でいったんは休校になった学校をいつ再開できるのかすぐに決めなくてはなりませんでした。4月に、文部科学省は暫定的考え方として、毎時3.8マイクロシーベルト以下であるなら再開しても構わない、との告知を出しました。これには「高すぎる」との意見も多く寄せられ、保護者や教育関係者の心配はしばらく消えることがなく、自主的な除染を行う動きなども各地で起こりました。
そして、もうひとつ、食品をめぐる基準です。2011年5月に、日本政府は食品に含まれる放射性物質の流通基準値をほとんどの食品で1キログラムあたり500ベクレルに定めました。この基準は、年間被曝量5ミリシーベルト以下に抑えるという指針に基づいていました。それから約1年後の2012年4月、この基準は1キログラムあたり100ベクレルにと引き下げられました。その時は、年間被曝量を1ミリシーベルト以下に抑えることを指針としていました。
この基準の変更にともなう反響はさまざまでした。当初の1キログラムあたり500ベクレルという基準が高すぎるとの批判も多かったため、引き下げられたことに安堵する人も多くいました。一方、あまりに厳しすぎる基準になると、結局、福島県産の農産物だけが排除されてしまい、県内の農業者が生計を立てられなくなるのではないかとの懸念もありました。また、途中で基準が変わってしまったことによる「後味の悪さ」も残りました。こんな声も聞こえて来ました。「去年までは500以下で問題ないといって、100以上のものを他の人にも勧めてしまったんだけれど、もしかしてそれってマズかったのかもしれない…?」、あるいは「やっぱり本当は最初の基準は、危険だったんでしょ。政府は、またごまかしていた」。
まだ状況の全容がわからないなか、矢継ぎ早に政府の基準や対策が打ち出され、そのたびに社会に大混乱が巻き起こり、生活のストレスも混乱も増していく、振り返るとそんな状況でした。
いま、「状況の全容がわからない」と書きました。そう、この頃はまだ状況の全容がわかっていませんでした。今でこそ、福島県内の放射線量はあらゆるところで測られ、食品についても測定システムが整い、個人でも気になればかんたんに測定できるようになっています。ですが、当時は、測定機器も設置が進み、測定も順次行われ、状況は徐々にわかってきてはいましたが、今ほどではありませんでした。それに、測定された情報が多くの人に知れ渡るまでには、そこからさらに時間がかかりました。
2012年3月のダイアログで語られた参加者の言葉からもその様子がうかがわれます。子育て中のある保護者の言葉です。
原発事故があって、その時はなにもかにもわからなく、すごく心配しました。心配する一方で、放射性物質や放射線のことはわからなくて、とにかく怖くて、なにもかにもが不安な毎日でした。いまは毎日の生活を送っていますが、スーパーで食品を手に取る度に、産地を確認して、福島県産かどこかを確認します。できれば放射線のことも詳しく理解して、生活に役立てたいと思いますが、毎日の生活に追われて、本を読んだりする余裕もありません。それに、洗ってもダメ、冷凍しても減らない、時間が経たなければ減らない、でなにをどうしていいのかわからないから、ただ流れにまかせて生きていくしかないかなと思っています。(2012年3月)
「保護者は毎日毎日の暮らしでせいいっぱい」という言葉も聞かれました。大災害が起きた直後は、社会機能が一時停止したような状態になり、最優先のこととして被災者、被災地の救援活動や支援活動に社会の多くのリソースが割かれます。けれど、その時期が終われば、社会生活は再開されます。元の日常生活に復帰できる人は、慌ただしい日常がふたたび始まります。ただ、日常生活が再開されたからといって、すぐにまったく元の生活に戻ったり、災害への対応が終わったわけではありません。被災地では、日常生活に上乗せされる形で、災害への対応を続けなくてはならないことも多くあります。
原発事故の後もそうでした。しかも、時間の経過とともに状況が落ち着くのかと思ったら、情報は次から次と出て来て、その度に知識をアップデートしなくてはならない、そして、情報の入手先によって言うことが違うのです。
「チェルノブイリ事故の結果としてこんなことがありました」と書いてある、とある学者さんの本を読みました。それを読んで、ああ、なるほど。こういうエビデンスがあるんだ、と思った。でも、別の本を読むと、あれ? 関係ないと書いてある? こっちの本を読めばこう書いてあって、あっちの本を読めば別のことが書いてある。どちらを信用すればいいのか、自分にはわかりません。(2013年3月)
みんな、本を読んでいるんです。情報もいっぱいいただいています。でも、それをどういうふうに自分たちのところで生かしたらいいか、そこが情報によっていろいろ違い、心揺れたりするところもあると思います。(2012年11月)
日々の慌しさに追われながら、放射能の勉強を続け、とめどなくあふれてくる膨大な情報の中からどれが正しいのか見極める、それはかんたんなことではありませんでした。そのうちに、こんな感覚に陥る人もいました。
だんだんと何と戦っているのかわからなくなって諦めモードになり、いろいろ悩んだ末に放射能のことは気にしないように、目を逸らして、日々の小さな幸せを糧に生きていくしかないという境地に達した感じです。(2013年3月)
2012年3月に開かれた食品に関するダイアログには、生産者や生産者団体であるJA、それから流通の関係者も参加していました。この時期にはJAでは、すでに自主的な測定や対策が始まっていました。土壌の放射性物質濃度を測定し、また、果樹を洗浄し放射性物質が付着した樹皮をはぐなどの除染、農地ではゼオライト散布や深く漉き込むといった放射線量低減対策、そして、出荷する作物についてはモニタリング測定をするなどです。そうした努力については、ダイアログの中でも語られました。(2012年3月 JA新ふくしま発表より)
そうした生産者の取り組みを聞いていた保護者の参加者の発言です。
地元のものを食べないということは、日々作っている農家の方々に申し訳ない。大丈夫だよというものを出していると思うので、信じて地元の人から(率先して)食べていきたい。いろんな情報があるなかで、あまり神経質にならずに最低限の知識を取り入れながら、過ごしていきたいなと思いました。一番興味深かったのはJAさんが自主モニタリング検査をしていることです。それを聞いて、安心しました。安心した上で、これならば子供にも食べさせられるかなと思っています。できれば子供たちに食べさせたいと思っています。(2012年3月)
目の前で、生産者が取り組みをしている話を聞いて、少しだけ気持ちが変わった様子が言葉からうかがえます。「信じて食べていきたい」という言い方から、「信じる」ことができるかどうかが大きな意味があったことがわかります。それは、別の参加者の言葉には、もっとはっきりと出ていました。
自分の父親が家庭菜園で野菜を育てています。子供たちに食べさせるのに心配して、父親が測定してきて大丈夫だった、というので家族みんなで食べています。国や県が出している情報を信じて、私たちは生きていくしかない。国や県が信じられないという人もいるけれど、それまで信じられなくなったら、ストレスで日常生活を送れなくなってしまう。農家の方々を信じて、福島県産のものを信じて食べていきたいです。国は生産者の人を裏切らないようしてほしいです。(2013年3月)
短いコメントの中に「信じる」という言葉が、何度も出てきます。自分の父親が育てて、測って、大丈夫だと言った。だから信じてみようと思う。なにかを安全だと思うには、まずその情報を発している人が信じられるかどうかが重要になってくる、そう言っているようにも聞こえます。ほかの人の発言では、こういうものもありました。
この人は、信頼できるのか、できないのか。それを最初に考えて、話をしているような状況です。(2013年7月)
事故が起きて、多くの人たちが、なにがなんだかわからない状況のなかに放り込まれてしまいました。日常生活のなかで「迷子」になってしまった、と言えるかもしれません。どこを目指せばいいのか、なにを道しるべにすればいいのか、一緒にいる人たちがこっちだよという方向が正しいのか、自分が進んでいる方向が正しいのかもわからない。そんな状況のなかで、進む方向を見出していくために、最初になによりも大切であったのは、方角を知るための測定と、進む方向を一緒に考えて、道を作ってゆくための信頼できる同伴者だったのかもしれません。道を作りながら、自分たちのいる場所の地図を一緒に作っていく。そこではじめて、自分の暮らしが安全なものだと思える。でも、そのプロセスはまっすぐなものでもありません。時間が経つにつれ、忘れもしますし、気持ちも揺れます。
震災当初は講演会によく足を運んだり、線量計を毎日にらめっこしたりしていましたが、今は、講演会もまったく行かず、線量計も見なくなりました。講演会に行くと、先生方によって言っていることは同じなのかもしれませんが、ニュアンスによってまったく違うように聞こえてしまうことがあるんです。それで、またどっちかわからなくて不安になってしまう。信頼できると思った先生の話だけに決めて、それ以外は聞かなくなりました。今日、久しぶりに放射能の話を聞いて、忘れていたこともたくさんありました。人間ってやっぱり忘れてしまうものですから。(2014年8月)
リスク認識には、「信頼」が大きな、もしかすると決定的な影響を与えているのかもしれません。誰が信頼に足るのか、自分がその時に一番信頼できると思う人の言葉や情報をまず信じて、話を聞いてみよう、考えてみよう。前向きに動いていくためには、まず信頼できるもの、人を見つける、多くの人がそうしていたように見えます。
事故によって、信頼が大きく損なわれてしまったことは、リスク認識にも大きな影響を与えていることはダイアログの中でも何度か語られました。とりわけ、事故が起きた時のことが大きな経験でした。
野菜などは自分自身で確認して、これは大丈夫だろうと思うものは、子供にも食べさせています。ただ、これは気持ちの問題かもしれませんが、コメだけはまだ食べさせる気にはなれません。あの爆発のとき、あの年に実っていたコメだと思うと、どうしても食べさせる気になれません。(2013年3月)
測定した結果を見ても、生産者の対策や努力を知っても、それでも、やっぱり事故の時のことが頭に思い浮かぶと、気持ちが受け付けない。気持ちが受け付けないということが、なぜもたらされるのかは、ほかの人の発言が説明してくれます。
事故当時の最初の一ヶ月は、情報が足りませんでした。まさか放射能が来るとは思わなかった。東京では情報が先に来たかもしれないけれど、私たちのところには放射能が先に来た。放射能の危険性はなにも知らされなかった。私たちは、主体的に行動することができなかったんです。せめて、最悪これくらい危険だと知りたかった。そうすれば、自分で判断することができた。だから、放射能を考える上では、まず危険性をしっかり知ること、その上でどう対応して行くかが必要だと思います。(2012年11月)
この発言は、事故の時の衝撃を的確に表現しているように思えます。よく知られたことですが、福島での原発事故が起きるまで、日本政府だけでなく、電力会社も原子力の専門家も、日本で原発事故は起きない、と説明していました。日本社会全体でも、原発事故なんて起きるはずがない、と思っていました。ですが、事故はおきました。備えがありませんでしたから、当然のようにうまく対応はできませんでした。さまざまな情報伝達もうまく行うことができず、放射能の測定も最初はすぐにはできませんでした。
あの時、自分ではうまく対応できなかった、そのことは、自分の主体性を奪われて、危険に晒されてしまった、という思いを抱かせることになりました。もし、ちゃんと情報が知らされていたら、自分で対応できたかもしれないのに。心のどこかに「裏切られた」という思いを持っていた人は多かったことでしょう。誰に裏切られたのか、答えは人によって違うかもしれません。政府、電力会社、専門家…。でも、もしかすると、それは原発事故なんて起きないと思っていた、この社会全体や、自分自身に対してかもしれません。どうして自分はちゃんとできなかったのだろう、そこで自分自身への信頼も損なわれてしまいます。いちど強く抱いた「裏切られた」という思いを、信頼に変えていくには、時間を必要としました。
2011年に伊達市の富成小学校で行われたボランティアの人たちの手を借りての除染プロジェクトの後を振り返って、勝見五月さんは言います。
勝見五月さん:(当時の保護者の方たちの中には)先生の思いや、やってくれた人への感謝はすごくあるんだけれども、自分の家がまだ大変な状態なのと、東京電力や原発事故そのものに対してもどうしていいかわからない怒りがあった。保護者の方たちは、学校活動をすごく一生懸命盛り上げてくれて、皆さん、地域の学校としてかわいがってくれていたから、(除染プロジェクトや学校活動に対して)「何言ってるの」「絶対嫌だ」とか、そういう反対意見は出なかったんです。妨害などもありませんでした。けれど「これで終わり、満足ではない」の意思表示として、「行かせないよ」とか「(除染の終わったプールに)入れないよ」とかあったんですね。
対策がなされているのはわかる、対策をしてくれている人に感謝の気持ちはある。でも、起きた出来事に対してどう整理すればいいのか、身の回りにある放射能にどう対応していけばいいのかについては、ひと言で「リスク認識」という言葉では語れない、複雑な思いを多くの人が抱えていました。
そんななか、とても印象に残る言葉がダイアログで聞かれました。
あなたなにやってるの、と批判されたくなかった。(2013年7月)
この言葉を言ったのは、放射線の専門知識を持っている方でした。事故直後、放射性物質が原発から放出されているなかで、自分の身の回りの安全を確認するために、持っていた測定機で生活環境を測っていました。それを知った知人が投げかけたのが「あなたなにやってるの」という冷ややかなひと言でした。この言葉は、原発事故のあとに多く起きた亀裂を象徴的に言い表しているように思えます。
事故が起きて間もない時期は、状況がわからない混乱状況のなかで、それぞれが断片的な情報をつなぎ合わせながら、必死に対応をしていきました。それぞれがその時の自分が考える最善の行動を取った結果、まわりの人が自分とは違う行動をとっていくことは多くありました。けれど、誰もが真剣に、しばしば人生をかけた選択を短い時間の中で行なっていたのです。そこで、「あなたなにやってるの」と批判されれば、その人に不快感、もっと言えば、怒りを覚えるのは当たり前と言えるかもしれません。もしかすると、そう批判した側も、本当は動揺していて、自分と違う行動をとる人に、ついそう言ってしまったのかもしれません。ただ、そこで損なわれた人間関係も多くあったのだと思います。この人は、自分のことを理解してくれると信じていたのにそうじゃなかった。その思いは心を深く傷つけたことでしょう。
一般論としても、ほとんどの人間は、誰でも自分の生活と人生の主人公であるし、主人公でありたいものです。普段はそう意識していないかもしれませんが、自分の生活や人生を事細かに何かや誰かに制限されることを、幸せだと思う人は少ないと思います。原発事故が大きく揺るがしたのは、その意識さえしていない「主人公」の感覚でもありました。危機に襲われたときに、主体的に行動をすることができず、リスクに晒されるままになってしまった、自分は無力であった、その経験は少なからぬ人の自尊心を傷つけ、心に深く刺さることになりました。
そして、放射線との付き合いがはじまりました。新たに知らなくてはならないことがたくさんありました。同時に、「専門家」と呼ばれる人たちとの付き合いも新しくはじまりました。専門家と住民のあいだの橋渡しの活動をしてきた人は専門家と一般市民の関係についてこんな風に言いました。
専門家と一般市民との知識の差があまりにありすぎて、言葉が通じない。同じ言語を持たない、と感じました。(2014年8月)
日本語で言葉を交わし、お互い話している言葉はわかるのに、同じ言語を持たない、というのは不思議な表現かもしれませんが、原発事故のあとの一般人と専門家のコミュニケーションを言い表すのにぴったりの表現かもしれません。会話はできているのに、意味が通じていない感じ、話せば話すほど意思疎通どころか、言葉が空回りして浮いていってしまう、そんな光景が各地で見られました。ダイアログのなかでは、専門家からしばしば反省のような言葉も出ました。
私たち、特に放射線の専門家は、放射線の影響を考えるときに、人間をどうしてもオブジェクト(対象・客体)として考えてしまう。でも、それではやっぱりダメで、人間をサブジェクト(主体)として考えなくちゃいけない。人々のストーリー、人生があるはずなのに、それを捉え切れていない。(2012年11月)
ダイアログのなかでは、放射線の測定など、放射線の状況についての話と並行して、専門家と一般人のコミュニケーションについての問題意識もずっと底流としてありました。知識は、純粋に「情報」としてのみ流れることはほとんどありません。人を介して、コミュニケーションを通して伝達されるものです。つまり、知識や情報を伝えることは、コミュニケーションをすることと、実は大きく重なっているのです。知識の伝達はコミュニケーションの問題となり、科学者と一般人の観点の大きな違いは、コミュニケーションに衝突をもたらす大きな原因となりました。
科学的な視点は、「物」を把握するための、外側からの視点です。一方で、人間が生きることや暮らすことは、いつも自分中心の内側からの視点です。自分を主人公として生きる視点と、人を客体としてみるという、まったく相反する視点をどう擦りあわせていくのか、そして、人びとの生活の回復に役立てていくのか、一般人と専門家との対話は、それを考えていくプロセスでもありました。
ダイアログのなかでも、視点の違いによって分断が生まれたことがありました。とある専門家が、除染案を提示しました。その案は、もともとあった山の中の集落の線量を下げるために、山そのものを切り開いて地形をまるっきり変えてしまって、そこに新たに住宅地を造成する、という案でした。山の中に、忽然と新興住宅地が出来上がることになり、元あった景観は、まったく変わってしまいます。その案を聞いた地元の人は、猛然と反発をしました。うまく言葉にならないけれど、そんなのは自分が求めているのではない、と。
その専門家は、「よかれ」と思ってその案を提示したのかもしれません。けれど、そこでは、その場所を生きる、主人公であるはずのそこで暮らす人のストーリーがすっぽりと欠落していました。分断が起こるときというのは、だいたいこういう時でした。大抵の場合、そこに悪意や敵意があるわけではありません。けれど、主人公である人たちの視点を見落として、一方的に自分の視点を提示してしまう。それを相手に押し付けようとしていると受け取られることもしばしばでした。別の集まりの時には、専門家に対して、意見を「押し付けないでください」、そんな声が聞かれることもありました。
残念ながら、ひとたび生まれてしまった亀裂は、かんたんには修復できません。信頼を作るには長い時間がかかりますが、壊れるのは一瞬です。そして、壊れた後にふたたび作り上げるのは、もしかすると不可能に近いくらい、難しいことです。だから、コミュニケーションを常日頃行っているような人たちは、いつも慎重でした。
色んな考え、色んな思いの人がいます。測定の数値を見て「安全」と思っていても、自分で「安心」と思えるには大きな距離があります。色んな人たちとあってきて、私が最終的に思うのは、それぞれ、心配したり、心配していなかったり、様々だけれども、皆、健康で幸せな生活を送りたいと思っているのは一緒。そう思うからこそ、心配したり、色々行動してみたりする。それをお互いに尊重できるような世の中にしていかなくてはいけないのではないかなと思います。(2014年8月)
測定をしたり、放射線について学ぶことは大切。でも、怖いものは怖いと言っていいんだよ。(2014年8月)
原発事故後のコミュニケーションは、こんな風にひとつひとつ、複雑なピースを積み上げていくような、繊細でデリケートな問題でした。そうやって、少しずつ信頼を回復していく作業は、きっとダイアログだけでなく、福島県内の各地で行われてきたでしょう。ダイアログでも、互いの考えを安心して話すことができる場があれば、それぞれの判断や意見を尊重できるようになる。だから、自分たちの状況の理解を深めながら話し合える場を継続的に設定することが重要だという指摘も繰り返しなされました。
一方、「心配だという話をすると浮いてしまう」「放射能のことについて口に出すことが憚られるような状況がある」と言った声も聞かれました。
相談に乗ることもしていますが、日常で放射線についての不安を口に出される方は少なくなってきました。けれど、不安を持つ方はとても多く、アンケート調査をすると、福島での子育てについての不安を書かれる方も多くいらっしゃいます。(2014年8月)
測定も進み、対策も取られ、放射線量も減少していくなか、不安について口に出すことがなんとなくしづらい状況は、時間の経過とともに強まっていったのかもしれません。家族の中や、個人的な人間関係の間であれば、あるいは意見を交換しなくても、それぞれの判断を尊重する、ということで解決したかもしれませんし、それぞれの関係の中で「折り合いをつける」やり方を見つけていくことも可能だったかもしれません。けれど、集団での意思決定をしなくてはならない場面では、大きな困難を抱えることになりました。